見出し画像

神は細部に宿る


<畑の哲学>神は細部に宿る

この言葉はヨーロッパでモダニズム建築が流行した1900年代前半にルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエというドイツの建築家が自分自身への戒めとして語った言葉。

モダニズム建築とは「見た目より機能的や合理的を重視した実用性の高い建築様式」として、それまで主流だった見た目が豪華なバロック様式建築とはまるで違う外観を持つ。日本でも国立西洋美術館がその代表例と言える建築物で人気が高い。

モダニズム建築は鉄やガラス、コンクリートなどを全面に使用し、森林などの自然物には溶け込まないために「不自然」なレッテルを貼られてしまうことが多い。しかし意外なことに自然農の学ぶ上で「神は細部に宿る」という言葉は最高の教えのひとつである。

この教えは自然農に限らず一次産業に関わる生業において共通の教えの一つだ。職人は細部にまで最大限の敬意と最低限の謙遜を持ち、細心の注意と配慮を欠かさない。

その道に入るとまずは見習い・手習いとして作業に関わらせてもらえずに、時間をかけて師匠のその技を見続けることになる。そして師匠と寝食を共にし、師匠の習慣を身体に染み込ませていく。やっと仕事をさせてもらえたかと思えば、細かいことを何度も指摘され、きちんとした説明もなくやり直しを求められる。

「学習」という字は「学ぶ」と「習う」からなる熟語だが、それぞれの語源は「真似ぶ」と「慣れう」である。つまり師匠の暮らしと技を真似て、慣れることこそが弟子の学習である。そこに意味を問うことも良し悪しの判断も必要ない。だから師匠はいつも「黙ってやれ」としか言わないのだ。師匠の技を完コピすることこそ弟子の唯一の学習である。

自然農に限らず伝統工芸の技を学ぶ初心者にありがちなことが二つある。ひとつは教えてもらったことと全然違うことをしてしまうことだ。それは勘違いや細かいところを忘れてしまったパターンが多い。もう一つは師匠の技にいきなりオリジナル要素を加えてしまうことだ。これは思い上がりや思い込みのパターンが多い。どちらにしてもこういう人は「型無し」になってしまって、全く身につかないどころか辞めてしまう人が多い。

いつだって、師匠の技はとても細かいところまでこだわっている。それは師匠の師匠からの教えであり、遡れば必ず自然からの教えが含まれている。人間界から見れば厳しい自然界で生きる野生生物たちはヒトのように「これくらいでもいいでしょ」といったアバウトな生き方をしていない。彼らの世界ではそういったウソは通用しないからだ。

佐藤一斎は「最も優れた人は天を師とし、次に優れた人は聖人を師とし、その次に優れた人は書物を師とする」と述べた。言い換えると「三流は教科書から学び、二流はヒトから学び、一流は自然から学ぶ」となる。これはどんな道でも同じだが、ヒトから学べない人は自然からも学べない。弟子は師匠を完コピすることができて半人前となり、自然を完コピすることができて一人前となる。自然から学ぶということは自然を完コピすることに他ならない。

現代人は機械による大量生産、写真や動画などのデジタル製品、クリックひとつでコピー&ペーストなどに慣れてしまったがためにコピーすることが簡単なことだと勘違いしている。しかし手作業のアナログの世界において完コピほど難しいことはない。そのために真似ることを侮ってしまい、学ぶことができていない。

一流は難しいことを簡単にやってのけてしまうが、超一流はそれを素人には気づかれないうちにやってしまう。だから超一流の仕事は素人にはまったく理解されない。そのために超一流の作品は素人から見れば、何がすごいのか全く分からないのだ。そして超一流の人は誰にも気づかれずに、あなたもすぐ近くで今もひっそりと暮らしている。

人工物の象徴でもあるモダニズム建築の世界で「神は細部に宿る」という言葉が生まれのはおそらく、モダニズム建築といえども自然の摂理からは離れられないからだろう。特に無機物のものを組み合わせる建築スタイルでは有機物のような柔軟性がないので、少しの歪みが大きなリスクを孕んでしまう。機械は少しの不調があれば動かなくなるが、生物は少しの不調なら自身で修正してしまうように。

かといって、日本の伝統的な木工建築でも細部にこだわる。名匠たちは1mm、2mmの採寸にこだわって木材を刻んでいく。その数mmのこだわりが数百年も立ち続ける建築物を築いていく。その細部へのこだわりはやはり一流の人にしか分からない。だから、職人たちは先代の職人の細部のこだわりを見つけると驚きと喜びを感じ、同じような仕事をしたいと励むのだ。もちろん、素人にはそれを見つけられないし、理解もできない。理解できるのはいつだって数世代先の職人だけである。

その細部のこだわりとは決して「人間の都合」ではないことも忘れてはならない。だから、どうしても言葉で説明ができないことも多いし、現代の科学では解明できないことも多い。それゆえに師匠といえども意味を問われても答えられないし、良し悪しの判断もできないのだ。

自然農の職人たちの技もまたあまりにもシンプルなため、素人の目には大したことがないように見えている。しかし、細部へのこだわりは他の道の職人たちと同様だ。工芸品のように形として残らないために見過ごされてしまうが、その道の人が見ればその仕事ぶりと畑の美しさに驚きと喜びを感じるだろう。

畝の形や向き、大きさ、畝間や株間は数cm単位でこだわる。作業のタイミングは数日単位でこだわるし、野菜の葉の枚数や大きさ、色艶で作業の度合いやタイミングを決める。神は細部に宿るからこそ、細部にこだわれば神が味方をしてくれるのだ。

日本の伝統文化とモダニズム建築との共通点には「機能美」という点もある。日本の田畑には機能美が溢れている。農業の原則は「最低限の労力で最大限の収量をあげること」だ。そのために見た目の可愛らしさ(人工美)や良さ(自然美)よりも機能美が求められる。そのために農家は田畑を均し、畝を整え、野菜をきちんと並べる。

自然農の畑に対して批判があるとき、それは決まって畝の形がめちゃくちゃだったり、雑草がしっかり管理されていなくて「機能美」が感じられない畑だ。たとえ虫や草を敵とせずに、野菜の成長がバラバラでも、自然農の畑には他の栽培方法の畑と同様に機能美がなくては理解してもらえないだろう。

職人は必ずあなたの仕事ぶりの細部を見て評価をしている。もし誰かに認めてもらいたいなら細部にこだわって、神の美しさの力を借りよう。美しさは個人の好みだが、神の美しさは万人共通だから。神の美しさに言葉も意味も良し悪しもない。だから誰もがそれに惹かれるのである。


いいなと思ったら応援しよう!