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ルカの目論見 進化と絶滅


<ルカの目論見 進化と絶滅>

気候変動の話題とともに、ヒトによる自然破壊や動植物の絶滅、環境破壊による公害は世界的な関心ごとである。

現在のヒトの撹乱よりも大規模にしかも短期間に自然撹乱の大事件があった。それが6500万年前に恐竜を絶滅させた大隕石の衝突である。それによって地球の陸上、海中、空中を支配していた大型爬虫類の恐竜たちが一気に絶滅していった。しかし、それでもすべて生物は絶滅することはなく生き残り、現代の生態系を作り出した。あの事件がなければ人類も反映できなかっただろう。そして、ゴキブリはずっと生き残っている。

巨大隕石の衝突によって起きた気候変動は現代の生物の特徴持つハズレものを表舞台に引っ張り出した。孵化までに時間が短い鳥類、川辺に住んでいた小型爬虫類、体内で受精する小さな哺乳類たちである。移動数能力が高く、隠れるのが得意な生物たちである。

それよりももっと地球生命体の絶滅危機があった。現代から6~7億年前に地球の上面のほぼ全てが凍りつくスノーボールアースと呼ばれる事件が起きたことがわかっている。地球表面に生息していたほぼ全ての生物が絶滅したと考えられている。現代の生物の共通祖先はこのとき海中深くで生き残った生物である。

スノーボールアースの後に起きた大規模な温暖化によって生物はカンブリア爆発と呼ばれる繁栄期を迎える。ミトコンドリアとの共進化が起き、多細胞生物が出現するきっかけとなったのだ。まさにピンチはチャンスなりである。

ルカはどうやらこの気候変動が激しい地球という惑星で生物(ルカの分身)が絶滅してしまわないように「多種多様な生物のつながりネットワーク」を進化によって作っているように思える。ルカにとって進化とは「単体としては弱くなること」で「全体としては強くなること」だと。

もちろん、ダーウィンの進化論には「目的はない」と考えるので、これは一現代人の勝手な考えであるが、私はどこか納得してしまう。生き物が全て何らかの形でつながっていて、それによってここまで生き延びてきたと。

そこにヒトの価値観は全く関係ない。現代人の好みも関係ない。しかし現代社会に生きるヒトを見ているとindependence独立・孤立しているヒトはどこか生きづらそうに見える。自然界の生物は孤立した生き物は絶滅していった。

またinterdependenceもしくはinterbeingお互い様のコミュニティは充実した暮らしをしているように見える。むしろお互いに助け合える関係性、「助けて」と言える関係性は「ほんとうの自立」なのではないだろうか。自然界ではつながりの多い生物は生き残るように。やはりルカにとって、生き残ることがすべてなのではないだろうか。

生物多様性とは多様な環境があり、多様な生物が互いにつながりあって生きている生態系そのもののことである。ただ集まれば多様性が生まれるわけではない。ひとつひとつがバラバラであるから個であり、孤独になる。

多くの絶滅危惧種を保護している動物園には生物種が多いがつながりが檻によって閉ざされているので、多様性とは言えないだろう。自律的なシステムを作り出す機能性がないから、生態系としてまったく安定していない。そのためヒトによる管理が必要となり、お金も時間もエネルギーもかかっている。

だから、役に立つとか立たないとか、美しいとか可愛いとかかっこいいという基準でその種が必要がどうかは分からない。ただ、存在しているだけで価値があるのが生物多様性であり、それらがつながりあっている関係性こそ、多様性の醍醐味がある。

あなたの生命や暮らしに何かしらの価値を及ぼすとき、そこにつながりが生まれて多様性が維持される。しかし、都会の人々の需要や市場の流行など画一的な物差しで価値を判断するとき、多様性は奪われていく。私たちが有害だとレッテルを貼る動植物は利用法を編み出せば、過剰繁殖は問題ではなく何かの解決策になりうる。

自然界に有害動植物を広げたヒトの営みの認識も大事だが、それをヒトの必要を満たす新たな機会として捉え、自然界のバランスを回復すれば、ヒトは自然と調和できる。

こうした大変動が起きる時代にも小規模の安定期が訪れ、それぞれの安定期の後には短い活動期の律動が訪れる。数十万年続く氷河期は典型的な安定期でこの間に植物たちは養分を大地に蓄積していく。そして約一万年続いている現在の間氷期は安定期に続く活動期であり、氷期の間に蓄積された肥沃さを利用し、温暖な気候の元で多様な生命が爆発的に発生する。

人類はこのつかの間の間氷期に安定した気候のおかげで農業を発達させることができた。現在の四季が毎年訪れるからこそ、計画してタネをまき、収穫することができる。狩猟採集から農耕に移ったのは文明の発達でも賢くなったわけでもなく、この気候変動のおかげである。

これまでの地球の気候の律動から推測すると、今後千年の間にいつ氷期が始まってもおかしくない。草を口の中に含んだまま凍ったマンモスが発見されたように、突然冬が始まり、数万年間のあいだ春が来ない時がいきなり訪れる可能性だってある。

私たち人類が本当に考えるべきことは、気候変動を止めることよりも、必ず訪れる氷期に向けての長期的なプランだろう。もちろん逆にずっと夏が訪れる新しい時代が始まり、私たちが勝手に第四紀と呼んでいる時代が終わることもありうる。

私たちは人類にとって都合の良い生態系を築くことに集中して良いのではないだろうか。その環境は熱帯から極域までざまざま機構においての最適な生物多様性な生態系となるはずだ。気候や地形によっても違うし、それに応じてヒトの社会や文化も変わるだろう。その土地においてヒトが生きていくための生態系を築いていくことがパーマカルチャーの目的である。

実際に自然界のあらゆる生物は他の生物のことなんて考えずに、好き勝手にやっているように見える。おそらく実際そうなのだろう。彼らは天敵が少ない状況で、餌が豊富にあると確かに一時的に爆発的に増える。しかしそれが元で餌不足に陥るか、どこからともなく捕食者が現れて、結局個体数は減っていく。面白いのはそれによって絶滅するわけではなく必ず少しばかりの種は生き残るか、進化して生き残るのだ。それが現在の地球で起きている生態系システムである。

そしてこのシステムは私たち人類も含まれている。ヒトが地球の資源を貪って増え続ければ必ず個体数を減らす自然撹乱が起きる。以前までそれは感染症が担っていたようだ。しかし医療の発達によってそのリクスは減った。その人口増加によって食糧生産の道を進んだがために、森林の大き雨が伐採されて、自然撹乱のリスクが増えた。ここからは自然撹乱のリスクを抑えながら食糧生産の道を探るしかないようだ。結局のところ、あらゆる問題は人口問題に行き着くし、生物多様性問題にたどり着く。

ほんとうに人類がこれから何年後も何百年後も何千年後も生き残ることを考えれば、闇雲の生態系を変えて砂漠を作ることよりも、その土地に適した樹木を植え、その土地に適した農作物を育てることを選ぶはずだ。

ヒトは1万年かけて世界中の森林を伐採し続けてきたが、ヒトがいなくなれば500年から数千年ですべての森が復活するという。しかしヒトが進んで木を植えて適正技術を使えば、百年もあれば復活するだろう。それこそヒトが積み重ねてきた叡智である。

人間圏の拡大とともに生物多様性がどこまで減少するのかはわからない。なぜなら人間圏の拡大によって絶滅する種もいれば、突然変異やヒトの介入によって生まれる種もあるからだ。その新しい種は人類を絶滅に追い込む可能性もあるし、逆に思いもよらなかった豊かさをもたらし絶滅の危機から救ってくれるかもしれない。一つだけ言えることは、人類が生き残り続けるためには一定の生物多様性が必要であり、それがなくなったときに絶滅するということだ。

そして、人類が生き残れない大きな自然撹乱が地球規模で起きるときがいずれ必ず来る。しかし、安心してほしい。それでも生き残る生命は必ずいる。彼らがヒトがいなくなった地球で新しい生態系を築くだろう。ヒトが絶滅させてしまう生態系はごく限られた生態系だけだ。

生命の進化の歴史は絶滅と多様性の繁栄の繰り返し。今まで地球で誕生した生命の99.9%%が絶滅している。しかしそれでも現在の地球には100万種を超える生物がいる。原核生物や単細胞生物は大きな自然撹乱でも死なない。実際に最古の生物に近い種は今もなお生き残っている。

生命の進化史でいえば、生物多様性が生まれたのはたった5億年前だし(最初の生命は38億年前だから生命の歴史のほとんどは多様性がない)そのときが一番多様性の宝庫だった。そのときに比べれば、現代の生命ははるかに多様性に乏しい。どんな生き物が生き残るかはほとんど偶然に左右される。

老子は天地が織りなす現象つまり地震や火山噴火、津波などはヒトを含め生きとし生けるもの、罪なき命さえ奪いとる。天地がなせる業は、私たちにとって非情に見えるが、その裏でふいごのように万物を次々と生み出し、万物をはぐくみ育てると見ていた。

地球は万物を育む母であると同時に、情け容赦のない母でもある。化石に刻まれた38億年という地球の生命の歴史は、種は最終的に絶滅するということをはっきりと思い出させる。地球はもしくは宇宙はちゃんと必ず人類を滅ぼす。

もちろん、恐竜の絶滅のように地球外からの介入によって絶滅することもあるだろうし、宇宙の法則に従った地球の変化によって絶滅することもあるだろう。その生物多様性の絶滅危機のさきはいつだって新たな生物多様性であることは地球史46億年の歴史そのものである。


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