凡人ができること
<凡人ができること>
1年の終わりに過去を振り返り、1年の初めに未来を想う。日本人に限らず、誰もがそうやって1年1年を積み重ねていく。しかし私たちホモ・サピエンスはネガティブ思考の塊といってもいいほど、ついついネガティブになる。誰から頼まれたわけでもないのに、過去を責め、未来を憂う。「反省してください」と言われると誰もが自分を責める。反省しているふりをして自責してしまい、自分を無力だと思い、自分が嫌いなるループに入り込み、抜け出せなくなる。そのままだと自分も含めて、何もかも嫌になってしまう。この脳の仕組みは私たちホモ・サピエンス(ヒト)が持つ心の最大の特徴といってもいい。
現代の人類学ではヒトは森林から追い出され、サバンナに進出した類人猿だと考えられている。本来ならトラやヘビなどの天敵から逃げるために木に登っていたにも関わらず、サバンナに出てしまったヒトは逃げる場所を失ってしまった。そこでヒトは同じ境遇の弱いもの同士で固まって集団を作り、過去の失敗から学び、未来の心配のために対策を練った。これが現代にまで続くコミュニティの始まりであり、ここまで文明が発展した原動力である。
このネガティブ思考こそ、私たちが失敗から多くのことを学べる仕組みの根本であり、成功からあまり多くのことを学べない理由でもある。だからネガティブ思考が悪いわけでもないし、無くしてしまった方がいいわけでもない。失敗から学ぶことこそ、私たちヒトである。
つまりヒトはネガティブ思考のおかげで生き残り、天敵が全く存在しない都市を築き、最強の哺乳類としてトラを動物園の檻の中で飼育できるようになった。ということはネガティブ思考はいたって通常の思考状態であり、決して無くしてしまうことができないものなのだ。しかし現代社会においてネガティブ思考は自殺や鬱といった精神を殺す武器にまで過剰になってしてしまい、グローバル経済の原動力となり搾取と暴力の源となっている。
だからこそ私たちはネガティブ思考の奴隷になるのではなく、過去を振り返るときは「できたこと」「うまくいったこと」をたくさん振り返るように意識したい。逆のことは意識しなくてもたくさん出てくるのだから、頑張る必要はない。私たちがこれからも価値あることを続けるためにはポジティブ思考もまた必要である。
喜ばしい(ポジティブな)感情も不快(ネガティブ)な感情どちらもあるからこそ、やる価値がある。そしてそのどちらの感情の奥底には私たちが日々の暮らしの中で大切にしたいニーズがあり、この人生をかけて満たしたいニーズが隠れている。
そのニーズにたどり着くとき、私たちはこれからもそれをやり「続ける理由」にたどり着けるだろう。「始める理由」は何だっていい。ただ「続ける理由」だけが永続可能なモチベーションとなる。
「自然農は常に1年生」という言葉の通り、毎年変わり続ける気候、地球、宇宙に対応してたくさん失敗を繰り返しながら、少しずつ成功体験を積む。私たちは難しいことに挑戦していると「できてないところ」ばかりに目がいってしまうが、必ず小さな成功を、小さな成長をしている。それに気がつくための時間があなたには必要だ。
農家はいつだって去年の自分と畑と比べている。去年よりも成長した自分に目を向け、去年と変わった畑の様子を観察している。誰も他人と比べることはない。「隣の芝生は青い」というが「隣の芝生と比べる必要はない」。生物多様性の世界には優劣はなく、違いがあるだけだ。
ときにSNSの世界では野菜を無農薬・無肥料で育てた人がまったく野菜が育たず、虫に食べられて悲惨な姿になっている写真や動画がアップされ、定期的にバズっている。
その様子を見ていると誰もが野菜を無農薬・無肥料で育てることを「奇跡」だとか「不可能」だと宣言する。おそらくその誰もが挑戦したことがないだろう。どんなどきも騒がしいのは外部の人々であり、挑戦しない人々である。
大谷翔平の努力をすべて知っている人は本人しかいない。だから凡人たちは天才と呼ぶ。本当の天才は努力しなくてもできてしまう。凡人たちは大谷翔平の記録だけを見て「すごい」と言うが、同じチームメイトはその努力を含めて「すごい」と言う。
それでもなお、チームメイトが知らない努力があり、本人は誰から褒められることもなく、誰から強制されることもなく、努力を続ける。大谷翔平が起こしてきた奇跡は氷山の一角であり、その根底には本人しか知らない、私たちには決して想像もできない努力の積み重ねがあるのである。
自然農の世界でも天才はいる。誰から学ぶこともなく畑を観察し、植物との対話を繰り返し、すぐに自然農ができてしまう人だ。。勘違いしてはいけないのはそういう天才ほどたくさん失敗しているということだ。しかし、その失敗に引きづられることなく、逆にそこから学ぼうと観察と研究をやめない。日米で野球殿堂入りを果たしたイチローは言う。「満足してしまっては成長できなくなる」と、また「不完全であることが進もうとできる」と。
残念ながら私は凡人である。なんせ1年間研修を受けたのにも関わらず、はじめて自然農に挑戦した年の収穫はミニトマト3つだけなのだから。そんな凡人は積み重ねるしかない。実践し、観察し、調査し、研究し、また実践を繰り返す。そのフィードバックループによる積み重ねだけが私たちにできることだ。
これが凡人たちが「奇跡」だとか「不可能」だとか呼ぶ世界にたどり着ける唯一の方法である。肥料はもちろんのこと大量の有機物や堆肥を入れてしまったり、一生懸命害虫を取り除いていては決してたどり着けないのである。それは道が違うからだ。
昔から職人の世界は「道」と呼んでいた。誰もが歩くことができるにも関わらず、多くの現代人は歩き続けることができない。諦めずにタネをまき、草を刈っては敷く。そのシンプルな野良仕事を続けることができる凡人は少ない。
自然農の面白いところはここにある。誰もが簡単にできる型を繰り返して実践して、身体が覚えるころになると、ほとんどの野菜が育ってしまう状態になる。それは土とタネとヒトが調和し、一つの生態系となった瞬間である。そこまで来れば今まで苦痛だった野良仕事が不思議と楽になり、楽しくもなる。この過程は楽器やスポーツを学ぶ過程にも似ている。はじめへ基礎練ばっかりで、退屈で、つまらない。それでもこの時間を丁寧に繰り返して、努力を積み重ねた凡人は誰もが予想できないほど上達できるのである。本気でやった失敗(努力)は絶対に裏切らない。
その努力の積み重ねの中で、つまり道を歩いている中で「続ける理由」を見つる。それはときどき立ち止まって振り返ったとき、成功と失敗をどちらもありのままに振り返ることができたときに見つけることができる。すると今まで「失敗」としか見えなかったコトが不思議と失敗に見えなくなり、端から見たら失敗しているのに本人は楽しそうに手を動かしている。
「奇跡」とか「不可能」と考えられていることに挑戦しているのだから、失敗するのは当たり前だ。うまくいっていないのが普通であり、通常なのだ。どうせはじめは失敗するのだから、さっさと失敗して、そこから学んだ方がいい。それでも少しずつ去年よりも成長した自分がいることに気がつけるだろう。
そしてここまで来た多くの凡人は気がつくのである。「お金では時間は買えない」ことを、そして「時間をかけることでしか得られないことがある」ことを。お金で時間を買うことができると思っている人には決して歩くことができない道、たどり着けない世界がある、のだ
現代人が考える効率性は道の世界においては全くもって効率的ではない。現代人が時間がかかると思っていることほど価値があり、積み重ねると早く道を歩くことができる。ミヒャエル・エンデの代表作「モモ」に出てくるカメのカシオペアは言う。「オソイホド、ハヤイ」と。