換金作物と育命作物
<畑の哲学>換金作物と育命作物
あなたは一体何を育てているだろうか?いや、何のために野菜を育てているのだろうか?
たとえどんな農法や技術であったとしても農業という生業は、命を育てながら殺すということが必ず内包されている。だから、農業の世界では都会にある「自然保護」の価値観が響かない。
農家は常に「命よ、育ってくれ」と祈りながら、「命よ、ありがとう」と祈って収穫していく。
「食べる」という行為は「命の源」である。
どんなものを食べるかは、人と自然、人と人の交わり方を決めていく。
ずっと昔から私たち人類は共同で栽培し、収穫し、共同で飲食してきた。
その食べ物を提供する農のあり方は、私たちの身体や私たちが住む地域、環境のあり方に大きく関わるという意味で、まさに農こそ文化の故郷とも言える。
だから逆にその国や地域の文化を見れば、農の姿がが見えてくる。
現代の日本の農業のほぼ全てが「換金作物」として存在しているように見える。
その農業の世界では生産物や生産量といったモノであり、どれだけ稼げるかといった結果が最優先事項であり、最大の関心ごとである。
本来「業」という感じの意味は「道」や「究」という意味に近かったが。現代の法律用語では「ビジネス」を指す。つまり、農業はそのまま換金作物を育てて、利益を上げる営みを指す。
私が全国で農家さんに聞かれることはいつだって「それって収量はそのくらいなの?儲かるの?」だ。
その換金作物の生産の過程では、自然は人間のビジネスの対象という関係性が育まれていく。そのため農業が営まれていない耕作放棄地は無価値で無意味なものとなる。だから、駐車場に、メガソーラー基地にすることが開発となる。
私が全国で自然農やパーマカルチャーを教えているのはそんな稼ぐための農業としてではなく、生き方として農を捉え直してもらいたいからだ。その生き方から育てる野菜たちは換金作物ではなく、「育命作物」と呼びたい。
食べ物なのだから命を育むことは変わらないじゃないか、と思うからもしれない。
しかし、命を育むというのは決して食べる行為だけではない。野良仕事そのものが命を育むのだ。
シュタイナーは「生命農法」のなかでこう述べている。
「宇宙や自然の真理の中で植物たちとともに暮らし、自分が生かされているという喜びの本当の意味を模索しながら、現代の人間が失ってしまった宇宙のリズムを植物たちとともに取り戻す。これが本来の農業というもののあり方だと思うのです。」
京都大学農学部の元教授・黒正巌(「黒正巌著作集」)はこう述べている。
「農民は・・・(中略)・・・自己の耕作せる田畑の作柄を見て自己の子供の成長を楽しむがごとく自らを楽しみ、その生産物に愛着を有する。」
野菜に限らず「創る」職人たちは自身が生み出した作品をよく「嫁に出す」という表現を使う。彼には自分の娘のように可愛がって育てていく。だから売るのではなく嫁に出すほど愛着を持っているから、喜びとともに寂しさもある。
つまり、彼らにとって換金作物を作っているのではなく「命を育てている」ほうが表現としては近いのだ。
経済学者の守田志郎は大農と小農という言葉の区別を経営面積や投資額ではなく、目的によって区分した。
その違いとは大農の目的は「利潤」であり、小農の目的は「暮らし」だという。主に家族が中心になって行なっている農業的な生活の全てを意味していた。
つまり生産と生活が一体となった家族労作経営こそ、小農だと。
小農を営む家族にとって、農の現場は家族で過ごす現場であり、子供の遊びや教育の現場でもある。現代のサラリーマンが土日などの休日しかそんな時間はないが、小農は毎日がその時間なのである。
そして、小農がほとんどだった江戸時代は農作物から得たもので日常生活の道具や工芸を営むことで農は暮らしにとって生活の源でもあった。
現代の換金作物を作り出す農業の世界ではもっぱら「強い」ことを求められている。「強い農業」という言葉が国会や議題として上がっているのを目にしたことがあるに違いない。
「強いか弱いか」には「勝ち負け」がある。それは農業を生活として考えるのではなく経営として考えることを意味していている。経営である以上、野菜は換金作物以上の値打ちを持たない。そして稼げない農家に値打ちもない。
換金作物の価値とは、市場に出てお金に換わって初めて価値を認めることであり、産業としての農業の価値だ。つまり他の農家よりも高く売れ、多く儲けることで自分たちが育てた作物の価値が認められるし、自分の労働が認められる。
しかし小農たちにとってはそれは重要ではないとは言わないが、あくまで価値の一部に過ぎない。育命作物は人間だけではなくあらゆる生命の喜びにつながること自体、つまり種蒔きから食卓までの過程すべてに価値がある。
守田志郎はこう言う。
「企業論・経営論の視点からする経営規模の大小、利潤の代償といった数量的比較での優劣、競争世界とは農業は本来的に無縁なのである」
「農家が農業の生活を続ける限り、小農として持っている人間の値打ちは失われない」
換金作物はあらゆるものに換えることができるお金に姿を変える。そのため、無限の欲望に吸い込まれていく。より多くより多くより多く。それは資本主義の特性と相まって、雪だるま式に増えていく一方だ。だから商いは飽きないのだ。
しかし、農業は土地と気候に縛られた産業であり、人間の胃袋にも限界がある。そのため自ずと限界に達してしまう。その限界に達したことが分かるときは、たいてい精神の限界か身体の限界か資源の限界に達したときである。
逆に飽きることができるのが育命作物である。一人の人間が、一人の百姓が多様性の命を育むにも自ずと限界があり、その限界はいつも自分の手が届く範囲であり、目を配ることができる範囲であり、足が運べる範囲だ。それはすぐに到達してしまう。その限られた現代の産業から見れば狭い範囲内で、ヒトは自ずと自分自身と家族とそこに生きる生命たちのニーズを満たそうと工夫をする。パーマカルチャーとはつまりその過程を意味している。
だから、私はああだこうだと言い訳を考えて、諦める理由を作り上げて、畑に行かなくなってしまう人の気持ちが分からないのだ。すべては命につながるというのに。自分の命に、家族の命に。その命たちよりも大切なものがあるのだろうか。さっさと断捨離をして、本当に必要なことだけを選んでほしい。
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