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ふるまいと縄張り


<畑の哲学>対話が難しい生物との対話~ふるまいと縄張り~

人は歩くだけでも何かを表現する。しかし、それは他の猿にとってどんな意味を受け取るの赤はわからない。相手がどう受けるかが意味の伝達となる。

縄張り争いとは常に小さな衝突を繰り返すことを意味する。そこに決定的な線引きがされるわけではなく、その都度その都度お互いが確認しあっているにすぎない。常に領域は変化する。

20日振りに畑に足を運び、草刈りをしようと農具置き場に行くと頭に何か虫のようなものが勢いよくぶつかってきた。振り返るとそこにはアシナガバチが巣を作っていて、すでに大きさは20cmにも達しそうだった。

スズメバチやアシナガバチは畑の害虫をせっせと食べてくれる益虫でもあるが、巣に近づくものすべてを警戒し、ときに巣を守るために戦う生物だ。つまり私が戦うつもりはなくても、彼らは必要ならば戦う判断を下す。

こういった生物との対話は大変難しい。アシナガバチがその場で巣を作ることを諦めてもらう方法は駆除しか残されていない。しかも追い払ったり巣を壊そうとすれば群れとなって攻撃してくる。

農具置き場と勝手口は動線でつながっていているし、近所のおばちゃんたちもすぐ近くを通る。その動線との距離も近いため、巣がこれ以上大きくなればアシナガバチの体当たりだけでは済まなくなるだろう。

対話が難しい生物の特徴は人間の都合を押し付ければ、攻撃をしてくる点だ。

アシナガバチの巣の駆除についても実ははじめて自然農をしたときに住んでた家で体験している。そのときに薬剤を使わない方法がないかとたくさん調べていた。方法はたった一つだった。巣を作り始めて間もないときに、蜂が飛び出して何処かにさった時を見計らって、壊してしまうというものだ。このときはまさにそれができるタイミングで気づいたため、木の棒一つで解決ができた。

しかし、調べた情報ではアシナガバチの巣造りは夏の間ずっと続く。人間に追い払われたハチや自然現象によって巣作りを諦めた女王蜂は時間が許す限り巣を作れそうな場所を探して、見つけ次第そこで巣を作る。

だから私はこのとき、1週間に一度は必ずこの場所をチェックすることを心がけた。しかし結果はアシナガバチを近くで見ることはあっても、巣を作ることは一度もなかったのだ。このときそれは不思議に思えたが、ただ単に巣作りにはあまり向いていない場所だったのだろうとシンプルに考えた。そして、その家に住んだ4年間にその場所にまた巣が作られることは二度となかった。

過去のことを思い返していたら、去年の夏の終わりのことを思い出した。夏の終わりに今年巣を作ったあの場所に何やらモゾモゾと動いて巣を作りだしそうなアシナガバチを見かけていたのだ。そのときはもう夏の終わりだからもし巣を作ったとしても大きくならないし、そこで越冬することもないから、とくに気に留めずにそのままにしておいた。
そのことを思い出してみるとある仮説が浮かび上がる。

今住んでいる家は3年目で、はじめて夏の間に20日間もその農具置き場に足を運ばなかった。その間におそらく女王蜂は何度かこの場を訪れているはずだ。そのときに人間の気配を一度も感じることがなかったからこそ、その場に巣を作ることにしたのだろう。

つまり、人間である私とアシナガバチは過去に何度か対話をしていた可能性がある。それは人間の言葉や非言語のジェスチャーではなく、無意識のやりとり、空気のやりとりでもいうようなものだ。

もし去年の夏の終わりにあのアシナガバチの巣造りを邪魔していたら、今年は巣を作らなかったのではないだろうか。初めて住んだ家で一度邪魔をしたら、その後に二度と作らなかったのはそこに訪れていたアシナガバチは人間が邪魔をしていた痕跡のようなものに、何かしら気づいていた。だから、偵察に訪れたときにさっさとその場を諦めていたに違いない。

痕跡といったがそれはやはり人間には分からない程度のものだろう。昆虫のように小さな脳しか持たない生物は学習することが少ない。だから生命の記憶つまり遺伝子レベルで反応するもののはずだ。

アシナガバチにとって人間は天敵なのかは分からないが、お互いが共存する里山では数千年の間このようなやりとりが行われてきたはずである。だから、アシナガバチの生命の記憶には巣作りを邪魔する生物の情報は刻まれているし、その痕跡を何かしらの方法で見つけ出すことができるように進化しているに違いない。

今年の巣作りの時、その痕跡を見つけることがなく、長い間そこで人間の気配を感じなかったアシナガバチは巣作りを始めたのだろう。私は去年の夏の終わりに人間の意志つまり「ここに巣は作らないでほしい」という痕跡を残さなかった。むしろ放置したということは「ここなら巣作りの邪魔をしない」という痕跡をアシナガバチは理解したのかもしれない。

私たち人間もその場の空気から何かを感じ取ることがある。よく空気という言葉で片付けてしまうが、それは確実にある。確かにただの勘違いや妄想という可能性もあるが、どうしても伝わってしまう空気は誰もが感じ取った経験があるだろう。

私たち人間は生物と対話するときについつい人間の言語と非言語で考えてしまいがちだ。これほど多くの生物に囲まれて共生・共存しているからにはそのコミュニケーション方法は王道ではない。むしろ、痕跡のようにかすかで簡単には気づけないものや、空気のように何とも説明できないものでコミュニケーションをずっと取っているのではないだろうか。

今年作らせてしまった巣は薬剤を使って駆除をした。
つくづく小さな変化のうちに気がついて行動を起こせば、小さな力と資材だけで済むと実感する。ものごとが大きくなってから、それを変えようとするには大きな力と資材が必要となる。その後の影響もまた大きい。

私たち農家にとって対話が難しい生物の代表は虫よりも猿や猪、鹿たちだろう。昔の農家にとって彼らとの対話は駆除や狩猟ではなく、里山の整備だった。家畜の餌を取る草刈りや芝刈りという里山の整備によって、人間の痕跡と人間の空気が作り出されて、彼らはそれを敏感に感じ取って近づかないようにしていた。もしくは彼らがいない間にそっと利用していた。

それがお互いの生命の記憶に残っていたから、時に衝突することはあれど、獣害と呼ばれるほど大きな影響はなかった。今では里山の整備が生活から切り離されてしまい、彼らとの対話は一気に減少した。そして、お互いの生命の記憶から、お互いの情報は消えつつある。

対話というのは決して時間を作って、椅子に座って向き合って、言葉やジェスチャーでするものとは限らない。自然界では常に情報が行き交っているように、私たち人間も里山の獣に対してさまざまな情報を送ってしまっている。

その人間は気に留めない、気がついていない対話に参加しなければ、彼らと良好な関係性は築けない。それも昔の日本人のように生活に染み付いた形で、だ。そうではなければ、「駆除か保護か」という誰のためにもならない議論を人間たちだけして、何の成果も得られないだけのままだろう。


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