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大切なものを大切にする それがコミュニケーションってやつだろう?


<畑の哲学>大切なものを大切にする それがコミュニケーションってやつだろう?

自然農は草を残す。いや、むしろあえて草を生き残らせるように刈ったり、タネをまいてわざわざ生やしたりする。
だから徹底的に除草する百姓たちにとって、その光景は異様でもあり、居ても立ってもいられなくなる。

実際に気がついたら畑の一部に除草剤を撒かれていたり、草が綺麗に刈られてしまった、という体験談は多い。そういった相談も。もちろん、私にも同じ経験がある。

はじめてタネ蒔きから収穫まで関わる畑を持った私は畑の端の幅30cmほどの列を草刈りをせずに残しておいた。ここは昆虫たちの住処であり、草マルチ用の草刈り場になる予定だった。

私の畑は狭い道に面していた。大人がすれ違えるくらい狭く、近所の人たち(といっても二人くらい)が散歩に、畑に通うために利用する道だった。草を残していたのはもちろん私が借りていた敷地内だったのだが、この道をよく使う方が除草剤を撒いてしまったのだ。この道を歩くたびに気になっていたようである。

「お忙しそうだったから。」除草剤を撒いてしまった初老のおばあさんは言った。その言葉と親切心は嘘ではないだろう。ただ、この方の畑は草一本生えていない様子を見れば、草がぼうぼうに生えていたそのスペースは異様であり、草を取り除きたくて仕方がなかったことだろう。(ちなみに畝の上は綺麗に草を刈っている)

私は丁寧に説明した。無農薬で栽培することにチャレンジしていることや生えてくる雑草を食べていること、除草剤ではなく草刈り機や鎌で管理したい、ということを。

否定や批判をしないことを心がけた。除草剤が危険だと思うことを説明することも説得もしない。説得は容易に同調圧力に変わるからだ。価値観や考え方が違う場合、否定や批判は敵対関係しか生み出さない。信頼関係が育まれるまで相手の話や言い分を一旦受け入れることも必要になる。

あばあさんとの話で分かったことがあった。この集落では隣の敷地との境界線約10~20cmほどは作物を植えずにキレイに草刈りをするのが暗黙の了解だということ。つまり、その暗黙の了解を犯していたのは私の方で、おばあさんは私を責めることなく、管理をしてくれていた。

長年の付き合いの中で生まれる暗黙の了解は移住者にとって分かりづらいばかりか衝突が起きるまで全く気がつけない。かといって暗黙の了解をすべて教えてくれる人はいない。だからこそ、大切なのはお互いの価値観や考えをぶつけて、議論することではない。お互いに大切にしていることを明らかにすることなのだ。そのためにまずはじめに相手の話を聴く姿勢は欠かせない。話を聴けない人は話を聴いてもらえない。

私は境界線に接している部分はキレイに草刈りをすることにした。そして、そこから少し離れたところには緑肥としてライ麦を蒔いた。そのライ麦が大きく育ち、穂をつけた頃にまたトラブルが発生した。おばあさんがそのライ麦をキレイに鎌で刈ってしまったのだ。

その様子を見ていたご近所の方がおばあさんに声をかけたことで、おばあさんは後日タケノコを持って謝罪に訪れた。おばあさんはコムギやオオムギは見たことがあってもライ麦は見たことがなかったようで、「大草が生えて大変だろう」と思ったようだ。大きく実った穂が道側へ倒れてきていたことが気になって仕方がなかったようだ。おばあさんが何十歳も年下の私に深く頭を下げて、タケノコを差し出してきたことに驚いてしまった。

どうすることがお互いにとって無理がなく、価値観を押さえつけることなく、共生・共存できるのだろうか。私は考え事をするときは決まって歩くことにしている。集落の中をぐるぐる歩いた。パーマカルチャーの現場でよく出てくる格言がある。「problem is solution」。問題はすぐに排除するべき存在でも、無視をするべき存在でもない。問題の中にこそ、美しいデザインの源がある。だからこそ問題から目を背けるのではなく、問題そのものを観察する必要がある。レッテルや評価を下すことなく、ありのままに。

その格言を思い出しながら集落を歩く。ここには1年ほど住んだとはいえ、私はゆっくり観察することをしていないことに気がついた。解決したい問題が生まれたとき小手先のテクニックでその場しのぎをするのではなく、ゆっくりじっくり観察することは非常に役に立つ。

そこで私のに目に留まったのが観賞用の花だった。それまで全く興味がなかった観賞用の花。食べられるわけでもないし、お茶や薬になるわけでもない。むしろ毒草も多いにも関わらず、高齢者が好き好んで植栽する花だ。

そう、私にとって観賞用の花は無意味であり無価値だった。しかし、この集落に住む人々にとってそれは大きな意味を持ち、重要な価値があるようだ。どこの家にも観賞用の花がキレイに植栽されていた。私は自分の視野の狭さに気づかされた。生物多様性を口で言いながら、実践できていなかった。私たちが頭で無意味と決めつけているものにこそ、問題を解決に導くヒントが隠れている。美しいデザインとは思いがけないところから生まれる。

私はさっそく近くのホームセンターのタネコーナーにあったワイルドフラワーミックスという様々な品種が混ざったタネを買った。ちょうど蒔き時ということもあって、すぐにそのスペースに蒔いた。そして、あまり背が大きくならないように定期的に草刈りをして、草は畑のマルチとして利用した。一年を通して何かしらの花が咲く。私には全く名前が分からないが、とにかくキレイで艶やかな花が咲く。

畑で作業をしていると例のおばあさんが通りかかる。目が合うとおばあさんに「キレイなお花ね!これは食べられるの?」と聞かれるが「いや、全く分からないんですよ。とりあえず花のタネをたくさん蒔いたので、名前も分かりません。」

「そしたら、このお花をもらってもいいかしら?玄関に飾ってみようかしら。」「ぜひ、もらってください!」「ありがとう。キレイに管理してくれているのね。」

道沿いに一年中何かしらの花が咲いているからか、畑には常にミツバチやチョウを見るようになった。私の畑には花を植える前よりも多様性が生まれたのだ。おかげでズッキーニの人工授粉をしなくても実がなった。

私はこの集落にやってきて、はじめて褒められた。それは自分の価値観を押し付けたわけでもないし、相手の価値観に渋々従ったわけでもない。最先端のテクニックを見せびらかしているわけでもないし、昔ながらの伝統的なものにこだわっているわけでもない。相手の大切なものを、こちらも大切にしただけだ。そう、それがコミュニケーションの本質であり、信頼関係を育むミソだ。そこに議論はいらない。

私たちはついつい言葉を使って、コミュニケーションをとり、対話をして信頼関係を育もうとする。しかし、口よりも行動の方が何倍も早く確実に信頼関係が育まれる。相手が大切にしていることに気がつき、そしてそれをこちらも大切にすること。それが寄り添うということであり、他者とのコミュニケーションから異文化コミュニケーションまで共通するものだろう。違う価値観だからといって分断するのはもったいない。

田畑は地域住民とのコミュニケーションの場となる。家に籠もってしまいがちな現代人にとって地域住民との貴重な時間だ。わざわざ、家を訪問するほどでもない要件や相談などもしやすい。

それに田畑の作物や食べられる野草、観賞用の花などは共通の話題として最適だ。地域伝統の漬物などのレシピを教えてもらえる機会にもなるし、何よりも地域の歴史や風土を知る絶好の機会だ。そこからこの集落に住む人々が大切にしているものに気がつくことができる。

「郷に入れば郷に従え」とは決して暗黙の了解や地域のルールに無条件で従えという意味ではないような気がする。私は地方に移住してみて分かったことは「誰もが大切なものを大切にしてもらいたい」という想いがあることだ。それは移住者だろうが地元民だろうが関係ない。

こちらに大切にしたいものがあるなら、まずはあちらの大切にしたいものを大切にする。こちらの大切にしたいものを大切にしたまま。そうすれば「こちらかあちらか」ではなく「こちらもあちらも」満たす手段にいずれたどり着くだろう。これこそが多様性の世界における対話の在り方だろう。

あなたは自分の価値観や正義を頑なに守り続けて、視野が狭くなっていないだろうか?


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