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分ける西洋科学と分けられない地球、分からないカミ


<分ける西洋科学と分けられない地球、分からないカミ>

西洋科学において「観察し、実験する主体をこちらに置き、客体をあちらに据え、あたかも主体となんの関わりもないもののように観察し、実験することが重要」と考えられている。これを一般的に客観性と呼ぶ。

西洋科学では実験者の関与と思想が入り込むことを良しとしない。真実から遠ざかると考える。こうして、西洋科学は主客を「分ける」ことが前提として行われるこの世界の理解の仕方の一つである。西洋科学の根源こそ、「分ける」だといえる。

この前提があるからこそ、科学はそれまで宗教によって理解されていた宇宙の仕組みを次から次へと解き放つことになる。そのきっかけとなったのが地動説の証明であることは有名な話だ。

そのため現代においても「常識を疑え」という教えは科学者たちの中で口酸っぱく教授から生徒へと受け継がれる。惰性や常識に染まっていれば、それ自身を不思議に思うことはない。春になって花が咲かないと不思議に思うが、春には花が咲く事を不思議に思うことが好奇心である。それが観察と調査を生む。

西洋科学の源にある「分ける」は現代教育において最も重要視することと同じである。つまり「分かる」ことは分類することができるかどうかにかかっている。そのために私たちは徹底的に定義や意味を暗記させられるのである。「細胞とは何か」「哺乳類と爬虫類の違いは何か」と。

言葉の定義や意味が同じではないと研究も議論にもならない。これからクジラについて研究・議論をしましょうとなっても、研究者がそれぞれサメ、イルカ、マグロを独自の解釈でクジラと定義してしまっては何も始まらないのである。そのため定義が曖昧な言葉を使う場合、科学者たちはまず初めにその言葉の定義をはっきりと明示した上で論文や発表を行う。

その科学教育のせいなのか、私たちは日常の暮らしや政治の中でもいちいち右派左派だとか自然派だとか反~~派だとか分類されて、分断して、分かったつもりで話を進められてしまっている。「自然に帰れ」とか「自然を守れ」という発想は分かれているからこそ言える。西洋思想では「自然」と「人間(人工)」は別れて存在している。人間も人工物も自然界の摂理からは逃れられないのに。

また「自分自身を疑え」ともいう。これは自分の意見や説に固執するあまり、それにとって都合の良いことばかりを見て、都合の悪いことを無視しまうことで審理に辿り着けなくなると考えるためだ。

理解inteligereという言葉は「常にintus」と「内部を読むlegere」からなるように、私たちはついつち自分が持っている知識や意見、それは言い換えると常識や偏見から分かろうとしてしまう。誤解もまた見事な理解の一つとも言える。

多角的に物事を見ることの大切さを説く話は世界中にたくさんある。「七人のめくらとゾウ」というインドの寓話が有名だ。誰もが正しいことを言っているのだが、見る角度が違うため、得られる情報が違い、その違いでお互いを批判・評価し合っている。

しかし、そうやって多角的に情報を集めても実は像のことを理解できるわけではない。誰もゾウの内臓のことは全く理解できない。七人のメクラが触っているものはゾウの剥製の可能性だってあるではないか。

そこで科学は分解して理解しようとする。骨、筋肉、内臓、細胞とどんどん切り分けて切り分けて、最終的には顕微鏡を持ち出して、理解しようとするだろう。

ここで西洋科学者を批判する言葉として「科学者は顕微鏡の中のことは分かるが、地球のことは分からない」というものが登場する。

すべてを解剖して理解しようとしても、それがつながっている時の内臓ではない。動的平衡の世界のもを空間・時間で切り分けて理解しようとするとそれはまるで機械のように見えてしまう。理解してしまう。つながっている時の内臓の躍動感・ぬくもりを理解することはできない。

それに脳や神経系をいくら調べてみても生きているゾウが見ている世界も、知覚している世界も、解釈している世界も人間には理解はできない。

福岡伸一はいう。「動き続けている現象を見極めること。それは私たちが最も苦手とするものである。だから人間はいつも時間を止めようとする。止めてから世界を腑分けしようとする。」

「時間が止まっている時、そこに見えるものは本来動的であったものが、あたかも静的なものであるかのようにフリーズされた無残の姿である。それはある種の幻でもある。かつて動的平衡にあったものの影である」と。

ゾウを理解とするのと同様にこの地球を理解しようとするときもまた分けてしまっては何も分からなくなる。たとえ政治家たちが国境線を引いたとしても、大地は繋がったままである。法律や地図が大地を分割しても、つながったままである。そんな境界線は人間の頭の中にしかなく、他の生物たちにとっては幻そのものである。

この世界のものはすべてが繋がっているからこそ、互いに影響しあい、生態系は一つの生き物のように変化し続ける。物質・エネルギー・情報はその合間を行き交う。その一部分を見て人間はそれぞれに調和だとかカオスだとか問題だとか解釈している。

人間が分かろうとしても結局のところ、分かり切ることはない。科学であろうと宗教であろうと人間がこの世界を理解しようとするとき、それは常に氷山の一角なのだ。しかしそれでも人間とゾウは仲良く暮らしていける。それが大事なのだ。理解できなくても共生はできる。地球を理解できなくても人間はここまで生き残ってきたことは変わらない。

科学がどんなに発展したとしても常に2~3%のことしか理解できていない。新しい発見があるたびに「今まで分かっていなかった領域が分かっていく」ことを繰り返すからだ。確かに科学は宗教では解き明かすことができなかったことを多く発見してきたが、それでも分からない領域がある。私たち人間はその領域の出来事を奇跡だとか、神秘だとか、超常現象とか、カミ(神)と読んでいるだけに過ぎない。


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