河川は龍である
<河川は龍である>
2020年愛知県豊田市で起きたダムの大規模漏水事件から現代日本人の凝り固まった常識が見えてくる。
ずっと昔の日本人は河川を龍に例えた。
もともとは中国で生まれた想像上の生き物で、水神様でもある。
それは現代の科学からすれば、馬鹿げた空想に過ぎないのかもしれない。
しかし、龍が本当にいるかどうかよりももっと大切なことは、
「河川が生き物である」ということなのだ。
本来、河川は動く。
実際に動いているのは確かに水なのだが、河川の形も常に形を変えていく。
たとえば雨が多ければ川幅も広がるし、深さくなるし、スピードも増していく。
逆に雨が少なければ川幅は狭くなり、浅くなり、スピードはゆるやかになる。
河川はずっとずっと山奥から流れてくる。
何本もの小さな沢が合流を繰り返して、大きな河川となる。
だから、どこでどのくらいの雨が降るかによって、河川の表情は変わる。
川下で晴れていても、川上で大雨になれば、洪水となって川下の街を襲う。
河川が大きくなればなるほど、その動きは読めない。
生き物が突然動いたり止まったりするように、河川の動きを正確に読むのは非常に難しいのだ。
水は流れるとともにあらゆるものを砕いていく。
河川が蛇行するのも水が柔らかいところを削り取っていくからに他ならない。
河川の上流の近くに住んだことがある人なら、河川が大きな岩を動かして大きなゴロゴロという音を鳴らしているのを聞いたことがあるに違いない。
昔の人々はそれを龍の鳴き声だとか、腹の音だとか表現した。
しかし、人間はいつのころからか、その諸行無常の河川を不変でコントロール可能な非生物だと決めつけてしまった。
河川の両端をコンクリートで埋めて固めた。ときには川底までも。
こうして河川はどんなに雨が降ろうが降らまいが、同じ場所に留まるように見えた。
こうして河川は文字通り地図上でも見た目上でも同じものとなった。
しかし、それは地図同様に人間の頭の中だけの欺瞞に過ぎない。
実際の河川は常に動き、削っていく。
人間の都合なんて関係なしに動き回っていく。
だから、人間の頭では思いもしないところで堤防を破壊し氾濫する。
河川を非生物であるという常識で教育を受けてきた人には、それが想定外の出来事に見えてしまうだけだ。
河川が動き、あらゆるものを破壊することは自然界では常識である。
地球上に河川が誕生してからもうすでに40億年以上経っている。
そのなかでたったの一度も固定されたことがない。
なんども氾濫し、なんども山々を削り、なんども流れる場所を変えてきた。
とくに日本列島の河川は外国人から見ればまるで滝のようだと表現するように、その流れは早い。流れが早いということは削る力も強い。
削る力が強いということは氾濫も多いし、流れる場所もよく変わるということだ。
実際に江戸時代の古地図を見ると今現在の河川のある場所とは全然違う。
河川は龍である。まるで生き物のように動く。それが自然界の常識である。
その自然界の常識が人間にとっての常識だった時代には人々は河川の氾濫をコントロールするばかりか恵みとしても利用していた。
戦国時代に作られた信玄堤はその一例である。
人間が好き好んで栽培する植物(イネ科やマメ科など)が河川の氾濫を利用して種子を運ぶ性質を持っているのも偶然ではないだろう。
自然界の常識が人間にとっての常識で無ければ、いつまで立っても自然災害は少なくならないだろう。
自然界の常識が人間にとっての常識だった時代に「水害」という言葉がなかったことを思い出さなくてはいけない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?