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田畑は誰のものか


<百姓を識る言葉「田畑は誰のものか」>

「田畑を守る」とおっしゃりながら、誰も使っていない田畑を、誰が継ぐかも分からない田畑を毎年毎年耕して、毎年毎年草を刈る人生の先輩たちがいる。

はじめて農に携わったころは、その意味は全くと言っていいほど分からなかった。ど素人からプロとしてではないが全国の畑に関わらせてもい、もう10年近くになる。

最近では、あまりうまく育たないという相談を受けて、
畑を見にいくことが増えた。自然農がすぐにできるようになる畑とそうではない畑の違いは経験でも、知識量でも、努力でも、センスでもない。すべては畑次第だ。

畑が畑でなければ、野菜は育たない。アスファルトの隙間に大根が育つことがあってもアスファルトの上には大根は育たない。自然農がすぐにできない畑の特徴は『畑の歴史が浅いこと』だ。

世界でも稀に見る恵まれた気候と気象を持つ日本では畑は放っておけば、山になる。山になれば、それを畑に戻すには多大な労力がいる。ただ草を生やしておくだけでは戻らない。

畑を宅地にする、道路にすることは今ではとても簡単にできる(法律の問題はあるが)。しかし、それを畑に戻すには労力の他に資源と時間が必要だ。

先人が、山を人力で切り開き、開墾してきた畑を人生の先輩たちは守っているその時間と労力を無駄にしないために。私たちはそれを受け継がせてもらっている。

自然農の師匠の一人が教えてくれた言葉を思い出す。「畑をするなら、覚悟が必要だ」と。それは単に努力が必要だって話ではなく、先人の思いと労力を引き継いで、次の世代に渡す意思を持つということ。

野菜を育てることは、里山を育むことだ。野菜を育てることは、生態系コミュニティを育むことだ。「田畑は誰のものか?」という問いには必ず自分一人だけではなく、何世代も過去に遡り、何世代も未来へと想いを寄せて応える必要がありそうだ。

宮本常一さんの書籍には村づくりに精力的に関わった農民の姿がたびたび描かれている。農民が自身の田畑をよくし、自身の家をよくし、それにつながる道をよくし、楽しむ祭りをよくし、信じる神の環境をよくし、愛する家族のために子孫のために村を作っていく。

そうして必要なものを整備し、改善していくその果てしない作業が村づくりだった。それゆえに勤勉勤労は農民の理想の姿として自然に子供たちの憧れにもなったし、老農たちは尊敬され、村長にまでなる人がいた。日本の優れた農民の姿はこうして今の百姓たちに受け継がれていった。

田舎の農民は頑固で、古い習慣にこだわり、新しいことを嫌うかのように語られることが多いが、私はそうは思わない。自らの理想を意志で打ち立て、それが周囲の人々を傷つけず幸福にしてゆくためには相当な粘りが必要だからだ。ときに譲れないものがあるのだ。

百姓は農に生涯を命をかけている。だから、また農に生涯をかけるような人の言葉でないと本当に耳を傾けないほうがいい。そうでない人のたちの言葉に傾けていると、思わぬところで足をさらわれることだろう。そのことを生え抜きの百姓はよく知っている。

ときの権力に委ねることなく、褒賞や補助金に目もくれず、何世代にもわたって積み重ねられてきた田畑と思想を信じることで、守ってきたものが今この時代に必要なものとして都会の若者から注目を浴びている。そんな百姓は宮沢賢治の「雨にも負けず」に出てくるような詩のような人である。

結局のところ自然の理に沿った仕事をしていれば、それは自分ばかりでなく、自ずとあとから来るものもその気持ちを受け継いでくれることになるのだろう。それもまた自然の理なのかもしれない。

他人に命令・強要されるとき、人間は罪悪感から行動を起こす。そうではなく、自身の内側からの呼びかけに応じることのできる尊さを百姓たちは自らの志事を通して、学び取っているようだ。それは自ずと人々を惹きつけ、生態系を丸ごと味方につけていく。

江戸時代の農書にたびたび「素直な心を持つものは、不思議と周りが助けてくれる」といった格言が出てくるのは現代にも当てはまる。

『農業要集』には「どの農家にも、先祖から譲り受けた高知や財産がある。それらを自分のものだと思うことは、最大の誤りである。ゆめゆめ自分のものだと思うな。それらは、家を起こした先祖の高知・財産であって、先祖からの預かりものである。大切に所持して、子孫に伝えるべきだ。」という記述がある。

家長は所持地を自由に分割したり、売却・譲渡することは許されず、先祖から伝わった土地を少しも減らすことなく子孫に伝える責任があると考えられていた。先祖からの預かりものであり、勝手に処分してはいけない。これが家を継ぐということ。

大半の家が江戸時代あるいは戦国時代までしかご先祖を辿れない。なぜなら、その前の時代には百姓の家そのものが成立していないのだ。豊臣秀吉始めた太閤検地によって、はじめて家制度が成立したことを物語っている。日本史上画期的な時代である。

江戸時代の家は家名、家業、家産の一体性を持ち、過去から未来へ永続するものと考えられた生産・生活の基礎単位だった。したがって、家には現世を生きるものだけでなく、死んだ先祖やこれから生まれる子孫までが含まれていた。

太閤検地は兵農分離を進める役割もあった。納める人と受け取る人を明確にした。検地帳に中小の百姓が明記されたことは土地所有権の絶対的な根拠となった。それが小農自立を後押しし、「一地一作人の原則」自然と広がっていった。

新田開発や開墾の土地は開発者に与える決まりだった。
その証拠となるのが検地だった。そのため耕作していても検地帳に載っていない土地は農民に所有権はなかった。

この田畑に対する強い愛着が農地を手放さない強い理由となり、農民の農地規模拡大を妨げているのも事実だ。貸すことはあっても売ることに抵抗があるのだ。私たちはその想いを無視するのではなく、しっかりと受け止めて田畑を利用したいものだ。

勤勉に働き、先祖代々家に伝わる所持地を最大限に活用することによって経営を維持・発展させ、その結果として、家産としての土地を確実に子孫に伝えていくことこそが百姓の「生きがい」だったのだ。

日本人の美徳である勤勉は江戸時代の百姓が選び取った道である。儲かるからといって土地と農業を離れることは考えられないことだった。だからこそ農業とそれ以外の生業を組み合わせて経営していった。現代でも百姓という職業には必ず農業が含まれている。

もちろん、領主が百姓は濃厚に励むことが第一という農本主義、商業をはじめとする非農業的生産を抑制する抑商主義であったことも影響している。それでも日本の百姓は世界的にも珍しい民族だったと言えるだろう。

幕末に日本を旅行したスウェーデンのツュンベリーは「農民が作物で納める年貢は、たしかに非常に大きい。しかしとにかく彼らはスウェーデンの荘園主に比べれば、自由に自分の土地を使える」と述べ、「国の役人、徴税官、地方執政官、警察等々という何名もの人間によって支配されることはない。・・・農民は、自分の土地の耕作に全力を投入し、全時間をかけることができ、妻や子供はそれを手伝う。・・・その結果、この国の人口密度は非常に高く、人口は豊かで、そしておびただしい数の国民に難なく食料を供給しているのである。」と報告している。

ヨーロッパはよく「農奴」の存在が中世を説明する上で語られるが、日本の江戸時代には自立独立した小農民、つまり百姓が成立していた。世界史で登場する「農奴」とは土地・財産の処分権を持たない農民のこと。日本の百姓とは別の存在である。

オールコックは伊豆国の農村社会を見学して「ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいない」「これほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもない」など記していた。

日本人が再び田畑を守り、田畑を愛することができたとき、日本は再び幸福な民族として世界を驚かせることだろう。


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