見出し画像

お山と森林論


<お山と森林論>

自然農の職人たちが、江戸時代の百姓たちが秋が深まってから春のタネ蒔きシーズンまでの間にせっせと山仕事にでかけるのは決して山菜や獣といった食材探しのためだけではない。山が荒れれば田畑が荒れることを熟知しているからである。つまり野山を整えることは田畑を整えることになる。職人たちは田畑と山々を分けて考えることはしない。

村周辺の山々から肥料、燃料、食料、建築用材などを得ていた。山々は資源の宝庫だった。ときに山は季節を知らせる存在でもあった。遠くの山に雪が降ると冬の訪れを悟ったのだ。

そのためこの林野を「お山(オヤマ)」と呼び、日本全国に無数にある小さな山にもそれぞれに名前がつけられていた。お山と呼ぶ地帯は森林地帯をも含む。日本にとって山と森林は同じ意味合いで使用される言葉である。

日本の森林のほぼすべてに人間の手が入っている。まとまった広さの原生林はもうないとも言われている。証拠となる直径2M以上の大巨木が見られないためで、保護林や世界自然遺産などの森林にある巨木も保護される前に伐採されてしまったようだ。面白いことに現在の巨木のほとんどは里山にあり、神社の御神木扱いされている。

日本では14世紀ごろから、森林保護政策が行われてきた。ということはその少し前あたりから森林伐採が激しかった証拠だ。江戸時代にはお山にも多くの田畑が開墾された。もちろん木材の乱伐も進んだが、同時に植林も広まった。古文書には禿山がたくさん描かれているが、農書には植林についての記述も多い。

里山の多くは草山や柴山(低木類)の状態で維持されていた。シバとはハギ、アセビ、ヤマツツジ、ネジキ、クロモジ、クサギなどの低木類を指す。奥山に進むにつれて雑木が増え、高木類の山になっていく。草山・柴山は日本の気候条件からすると人間が手を加え、コントロールしなくては維持できない。

徳川時代に瀬戸内海沿岸の入浜製塩がはじまるとそれに使用する燃料はことのほか多く、その他たたら製鉄のこともあり中国地方の山はことごとくはげ山になった。また、岡山・香川・大阪地方では砂糖の製造が盛んでそのためのタキギも必要だった。そのおかげでパイオニアプランツであるアカマツが林を形成し、マツタケが豊作だった。

発火法が容易になり火種が得やすくなると夏の間は囲炉裏が締められるようになり、囲炉裏によるにビタキが竃に変わるようになると、さらにタキギの量は減った。茅葺きから瓦葺きになると煙突が用いられ、家が綺麗になるとタキギよりも木炭が喜ばれた。すぐに利用できる木材の不足もまた製炭技術の発展と普及を進めた。

明治に入って共有(コモンズ)の概念がなくなるとお山は個別に分配し、個別に稼ぐようになった。お山が薪炭を得る場所からお金を得る場所に変わる。文字通り、山地を自由に使い始める。江戸時代に切られている山林のうち6割までは燃料になっていたようだ。

戦後には拡大造林政策により、里山近くのお山にはスギやヒノキばかりになり、山菜やキノコの種類も数も減り、川も砂防ダムや三面コンクリート張りで魚影も消えた。つまり食材や薪となる広葉樹がなくなってしまい、林業家以外に山に用事や楽しみがなくなってしまった。日本の森林面積は戦後ほとんど変化していないのに関わらず、中身とヒトとの関わりは大きく変わってしまった。

江戸時代の農民たちはお山は生まれ変わりの舞台と考えたいた。死ぬと天にあるあの世に行くが、すぐにはいけない。そこでお山にしばらくいて、それから天に行く。そのお山を端山(はやま)と読んだ。街に一番近い山のこと。また天から降りてくる霊もそのお山にくる。だから、端山は天と地の、神と人の交わる地であり、そこを荒らすわけにはいかなかった。

もともと日本人は神様もご先祖様もお山(森)にいるものだった。母なる山は神聖であり、生まれ変わりの象徴でもあった。不用意に立ち入ることも開発することも敬遠され、弥生時代以降も神社仏閣周辺に鎮守の森だけは残した。

深い原生林に覆われている奥山は恐ろしく、怖い存在であった。農耕民は生活資料を得るために入会している里山以外、山に関する知識を持ち合わせていなかった。里山の名で知っているのは里山を除いて、その年の陽気の進行を知って、農作業の時期を選定するための雪形が出る山のみであった。白馬岳、爺が岳、蝶が岳など。

羽黒山、白山、富士山、御嶽山、大台ヶ原山など信仰の山には「サン」となづけられた。そう言った山々には修験者がいて、山から時々ありがたい薬草を持って降りてきて交流した。

しかし明治に入ってから一気に移入された西洋の森林論がお山を開発対象として見る動機になってしまった。5000年前、メソポタミアの伝説の英雄であるギルガメッシュの戯曲では、王は初めて都市文明を作った。その時彼がまずやったことは森の神様を殺すことであり、森を刈り払うこと。森の神様の祟りを信じなくなったというのは人類の歴史の上で大きな転換点だろう。それはついにジパングにまで及ぶことになる。

山に住む民族が守り、山に住む生命が築いていった広葉樹中心の森林はタダで獲得できる資源として、一方的に奪われ、その後始末に針葉樹が植えられた。科学者は「樹種の転換」という言葉をスローガンにしたが、森林からすればそれはただの「生物多様性の急減少」にすぎなかった。

東日本や北日本では30分の1から50分の1、西日本では100分1ほどまで多様性は減少し、その樹木と直接・間接につながっていた草や昆虫、獣たちは家と生きる術を奪われた。目には見えない微生物も含めたら、その数は誰にも想像できないほどだ。

神道も、仏教も、アイヌ民族も樹木に霊を感じ、むやみに伐採することを禁止し、する場合は儀式を必要とした。しかし効率性重視の資本主義経済下ではその思想は邪教に過ぎなかった。

「山(森)の民」と呼ばれる人たちがいたということは、里に降りてこなくても山にいれば十分にいきていけたことを示している。

科学者の多くは植物や動物に興味があり、そこに生きて暮らしている人々の暮らしに興味を持たないことが多い。そのため保護林や世界自然遺産にしていされたことで、山の暮らしが成り立たなくなってしまった人々が多くいたという。

ヒトと自然を切り離すことでそのふ秋対話から生まれた文化もまた消えていこうとしている。一方的な自然保護を訴えてきた人たちのほとんどは、一方的に自然資源を略奪してきた人たちであった。貴重なのは珍しい自然なのではなく、その自然と対話してきた文化だということを忘れてはならない。

山で暮らし、山に生かされてきた人々の声を尊重することなしに、自然保護はあり得ない。なぜなら、その豊かな自然はヒトとの対話によって育まれた自然生態系だからである。ヒトの手が入らなくなれば、自然遷移の法則に沿って、守ろうとしていた生態系は自ずと変わっていく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?