音霊とリズム
<音霊とリズム>
「よしき、バカやろう」
これだけを言葉にしてしまうと一体どういう意味だが全く分からない。しかしこれに抑揚やリズム、声色を変えて言ってみれば、多種多様な意味を相手に伝えることができるだろう。「おまえはどうしようもないやつだなぁ、愛すべきロクデナシだなぁ、もう」という愛溢れる言葉にもなるし、「おまえは本当にダメなやつだ!問題児だ!ふざけるな!!!」という攻撃的であり威圧的な言葉にもなる。
言葉の意味は決して言葉自身にあるわけではない。その言の葉をどう振るわせるのか、どうリズムを刻むのかが大切で、私たちはそれを想いを込めるとか魂を乗せるとかいう表現をする。その証拠にフリーダイヤルにかけると対応してくれる機械音声を初めて聴いた時の違和感は誰もが経験したことがあるだろう。棒読みの大根役者の演技ほど見ていられないものはないのも経験済みだろう。
一般的に私たちが言霊と読んでいるもの一面はここから説明ができる。この漢字は古代日本に中国大陸から漢字を持ち込んだ人々が当てた文字であり、本来はコトダマであり、本来の意味合いからすると「事魂」が近い。単なる現象を出来事に変えてしまうのがコトダマの威力である。
万葉集の中で「日本はコトダマの豊かな国である」とか「日本の国はコトダマが助ける国」という和歌が記されている。つまり8世紀にはすでにコトダマという語があった。
言霊は言葉に宿るもので、言葉は入れ物、器であり、それ自体に特別な力はない。その言葉にさまざまな意味を持たせ、自分自身に他者にパワーを与えたり、逆に呪いをかけることができるのがコトダマとなる。事と言は語源的に同じと考えられている。
三省堂「時代別国語大辞典 上代編」において、タマとは霊魂や神霊を意味し、人間の魂や自然物、特定の器物に宿る魂だという。また、それから遊離して人間にも取り付いたりして、さまざまな不思議な働きをなす超自然的な力。災いや幸いをもたらすこともある点から、恩寵の意にも用いられる。
音霊と書いてコトダマと読むことがある。中村孝道はコトダマとは「人の声の霊」で人の声は七十五あり(五十音と濁音の二十、半濁音の五)声ごとに「義理」が備わっているという。
江戸時代には一音ごとにあるいは五十音図の一行ごとにそれぞれ固有の意味があると考える恩義説が唱えられる。平田篤胤は音声には「意」があり、「象」があり、「形」があるという。
古代日本の無文字時代では言葉は音のみだった。アイヌ民族のように文字を待たずに、声(音)だけであらゆる生命とコミュニケーションを取っていた。逆に言えば文字を持たない他の生命とのコミュニケーションは音が最も重要である。
声かけ実験という面白い実験がある。これは煮沸消毒された三つの瓶にそれぞれ同じ食物を入れる。そして一つの目瓶には毎日「ありがとう」などのポジティブな言葉を、二つ目の瓶には「ばかやろう」などのネガティブな言葉を、三つ目の瓶は完全無視をする。すると数日から数ヶ月で、明らかに見た目が変わり始め、一つ目の瓶は発酵し、良い香りになる。二つ目の瓶は腐敗し、悪臭が立ち込める。三つ目は二つ目の瓶よりも早く腐敗してしまう。といった具合だ。ぜひあなたもやってみてもらいたい。特にこういう実験に対して否定的な考えを持つなら。
この実験に対してはサンプル数の少なさや実験環境の不備などさまざまな否定的な意見があるのも事実だが、今後の研究次第では次々に面白い自然界の法則が発見できる可能性がある。音霊という名の振動がいったい何にどんな影響を与えるのか、それを科学が解明することはできるのだろうか。
話を元に戻そう。日本にはオノマトペが多いが、これが言葉の起源の可能性も高い。もともと音楽で伝えていた気持ちを、言葉が伝えるようになったのではないだろうか。オノマトペは母音で終わることが多い。実際に私たちの身体は言葉を発するときも静寂を保つときも振動している。ときに大自然と共振することが魂の目覚めを体験する。
古来から続く伝統行事や儀式、神事には必ず特有の音があり、楽器があり、リズムがあり、メロディーがある。その音がヒトとヒトを、ヒトとカミを、魂を通じて調和に導く。その音楽の由来は諸説あるものの、動物の鳴き声や風の音など周囲の自然の音だったと考えられている。また日本神話にたびたび登場する神の声を聴く楽器の名前がコト(琴)であることも興味深い。
音楽を楽しむということは共振を楽しむことである。同じリズムに乗ることで一体感を感じる。ハーモニーを奏でる時の快感は言葉では表現し尽くせないほど、私たちを魅了する。同じ歌を歌うということは共鳴を楽しむことである。同じコミュニティであることを強く実感する。このように伝統的な暮らしを営む民族から私たち現代人まで歌とダンスはコミュニティを形成し、育む役割がある。
厳密な意味でダンスをしているのは、つまりリズムが刻まれるタイミングと身体の動きが最大になるタイミングが対応しているのはヒトと鳥とゾウだけだという。
鳥とヒトには聴覚と発生のミラーニューロンがある。ゾウには音を動きに変換するミラーニューロンがあるのかもしれない。声真似をして喋るゾウが報告されている。鼻を口の中に入れて音を変えるのだそうだ。
私たちヒトが人生において最も聴くオトダマは名前そのものである。古来から日本では名前をつけるということは言霊のように魂が宿ることを意味する。そのため、良くない名前をつけると運気が下がると考えた。それが現代まで親が我が子の名前に悩む最大の理由である。
また天皇家や武士の子は自身の本名を家族以外には知られないようにしてきた。なぜなら呪いの言葉は良くないタマを相手に宿らせることができると考えたからである。実は明治政府の初期の法律には呪いをかけることを禁じるものがある。それくらいタマを使うことは身近なものだった。
赤ちゃんは言葉の意味を理解せず、声音の抑揚を聞いている。国や文化、言語が違っても赤ちゃんが安心する抑揚は同じだ。それと同時に相手の表情や身振り手振りを交えた姿を見ている。そのため母語以外の言葉もすっと入ってくる。大人たちは単語の意味や文法ばかりに注目するせいで言語の習得が遅い。
子供に野良仕事や工芸、スポーツなどを教えるとき、私たちは難しい専門用語を使わずに、オノマトペのような単語を用いる。そのほうが子供たちはすぐに身につけていくし、そこ単語をリズムに乗せてあげるとさらに早く身に着ける。そして忘れない。これは大人でもダンスや楽器などを習得するときに使うテクニックの一つだ。
古来、中国では宇宙の根源現象は「道(タオ)」で表されてきた。実はこの道とはリズムであり、森羅万象はリズム、万物流転の現象である。
寄せては返す波のリズム。風に木の葉がゆれ、森林全体がゆらりくらりのリズム。焚き火の火の揺らめくリズム。私たちは音とともにリズムの中で生きている。そのリズムもまたタマを持ち、力と呪いの元になる。
江戸時代の百姓文化の中で、百姓たちが時代の音とリズムを奏でていた。百姓たちの間で一大ブームとなった和歌がその代表作である。
それは数世紀前まで一部の仏教徒や神道家のみに与えられた特権だったにも限られていた。百姓たちは田畑や里山を、森林を管理するだけではなく、そこに豊かさをもたらすために、自らの魂を持って神事に関わっていたのである。
その伝統を受け継ぐ現代の百姓たちの仕事もやはりリズミカルで、歌をこよなく愛する。百姓が繋いできた地元の伝統行事にはついつい踊りたくなる、口ずさみたくなる音楽が必ずある。
夜多羅拍子(やたらリズムとも)は唐楽のリズムの一つで、二拍と三拍を交互に繰り返す五拍子からなるリズムだが、この調子で野良仕事をしてみると不思議と身体の使い方が楽になる。
野良仕事の多くはそのコミュニティ内での集団活動だった。そのためリズムが合うことはコミュニティの絆を育む上でも重要であり、仕事を効率的にこなす上でも重要だった。その音霊とリズムは私たちを見守り、ともに暮らすカミと共振していることを実感するコトだったのである。
あなたは田畑に出たとき、どんな言葉をどんな抑揚で発しているだろうか。どんなリズムで野良仕事に励んでいるだろうか。どんな歌とともに過ごしているだろうか。あなたの田畑にいるカミは喜んでいるだろうか?