わたしと彼の世界から、彼らとわたしたちの世界へ
<畑の哲学>わたしと彼の世界から、彼らとわたしたちの世界へ
誰もが観察を学んだことがない。
現代教育と現代社会の影響からみんな、調査ばかりしている。
なかなか調査から抜け出せない人は多い。いつまで経っても良い悪いで評価してしまっている。
観察は教えるのが難しいが、コツはある。コツを掴んでしまえば知識も技術も吸収が早い。
観察と調査の違いは
「身体で受容すること」と「頭で認識すること」
「ありのままに感じること」と「概念で捉えること」
「変化に気づくこと」と「ものさしで測ること」
ほら、教えるのが難しいでしょ?
観察がうまいのは自然の中で遊べる子供たちだ。
彼らほど自然をよく観察し、目の前のあらゆるモノの特性を生かした遊びを思いつく人はいない。
自然の中で遊べない子供達が増えているが、それ以上に大人たちの方が深刻だ。
大人たちは自然の中に都会から便利な道具を持ち込まないと遊べないのだから。自然の中にあるものを使って快適に過ごせないのだから。
子供達は木の枝一本あれば、1時間以上遊べるというのに。
よく「子供向けのワークショップをしてほしい」と依頼されるのだが、
どうして大人は子供に教えようとしてしまうのだろうか。
子供たちは教えれば教えるほど、五感を鈍らせていく。
観察を忘れていく。自然と分離していく。現代の科学教育であればあるほどに。
西洋科学の本質は分ける(分かる)ことだから。
西洋科学の世界観で世界を覗くと、自分と他者は切り離され、他者は他者と切り離されていく。
その世界の中には切り離された「わたし」と「彼」しかいなくなる。
それを客観性と呼ぶのだが、それは顕微鏡の中だけでしかありえない。
観察はその客観性から遠く離れた主観性そのものを体現する。
子供たちとは遊ぶことしかしないようにしている。
大人には調査をやめて観察を教えるところからはじめる。
大人が観察を思い出せば、子供は自然とつながりを維持できる。
大人が観察を思い出せば、子供も野菜も自然と育つ。
もし子供と一緒に畑をすることができるなら、彼らと存分に遊んだらいい。
彼らは遊びの中で観察し、上達していく天才だから。
観察ができない人の世界観は幻に近い。
その観察が、その世界観が自然農を難しくしている。
いつだって自然農を難しくしているのは自分自身なのだ。
観察のあり方が変わると世界観が変わる。
見える景色が変わると言う表現そのものだ。
頭が分けてしまった「人間と自然」は繋がったままだ。
知識が分けてしまった「あらゆる生命」は繋がったままだ。
時計が分けてしまった「過去と未来」はいまと繋がったままだ。
観察ができるようになると自然農ができるようになるだけじゃない。
人生そのものが輝きをみせることになるだろう。
ほんとうの観察はあなたが大人になるにつれて身につけていった鎧を少しずつ剥がしていくことになる。
あなたに足りないのは観察だ。
眼は単なる光情報を受け取るための器官ではない。
それはあなたそのものの「まなざし」になる。
だから観るであり、世界観なのである。
「観」という漢字には「己自身を見る」という意味がある。
観察すれば必ず自分自身の内側を覗くことになる。
外側と内側が混ざり合い、つながり合うことで世界観は築かれていく。
わたしたちが生きるためには眼差しによって他者を捉え自分のものとし、他者の眼差しを向けられることで自らを確立したり失ったりする。
眼は「口ほどにものを言い」「あたたかい眼」も「つめたい眼」があり、「乾いた眼」もある。
「子供を教えるには手をかけてやると同時に目をかけてやらねばならない」というのは教育界でよく言われる言葉である。
他者の眼差しはこちらを自由に蔑み、奪うことができる。
瞑想で目を瞑るのは外に向かう眼差しを内に向けるためである。
どんなに貨財をもたなくてもできる善行を仏教で無財の七施というがその最初に出てくるのが「眼施」でやさしい眼差しをむけてやるということ。
その眼差しで自然を観察してほしい。
植物を、獣を、微生物を、あなた自身を、家族や友達を。
あなたの観察で生命を活かすことも殺すこともできる。
観察無くして、わたしたち生命は輝きを放つことはない。
江戸時代の百姓さんたちはお天道様や神様の眼差しを気にして生きていた。
私たちには今もなお、大いなる存在に生かされている感覚に覆われることがある。
それは両親やパートナーなど愛する存在に見守られているような感覚である。
あなたが植えた植物も、共に生きる獣も、目には見えない生き物も、そして子供たちもまた、
その眼差しの中で生きるとき、安心して光輝くことができるのだ。
観察は世界観そのものを作り出していく。
あなたの眼差しひとつで、わたしたち生命は繋がりを強くしていく。
そのとき、「彼ら」は「わたしたち」となるだろう。
自然と寄り添い、暮らす人たちはみな生命たちを「彼ら」と呼び、
この星の上で「わたしたち」がどう生きていくのかについて、いつも考えている。
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