小説「ヘブンズトリップ」_15話
「ここで休むか?」
「眠くなってきた」
今度は仮眠を取っていない俺のほうが眠くなっていた。
二人とも車のシートを後ろに下げて、フロントガラスから空を眺めた。ずいぶん近い空にはポツポツと星が浮かんでいる。
俺は一日の疲れを吐き出すように長い溜息をついた。
「病院で太一と話したのか?」
「ああ、史彦もあいつのこと知っていたとは思わなかった」
「あいつ、ずいぶん長く入院してるからな」
俺が言葉を続けなかった理由を納得したように史彦は話をする。
「先天性心疾患って言ってな、人によって症状がちがうんだ。あいつの場合は心臓のまわりを血液がうまく流れていかない。一般的な検査じゃわかることが少なくて治療の方向性が難しいんだ」
「それって治らないってことか?」
「命を落とす危険もある。そうじゃなくても普通の生活を送る上でいろんな支障も出てくる」
真剣に太一の病気のことを話してくれた史彦のに申し訳ないが、「医者にはなりたくない」、「医学部には行かない」という発言からは考えられなほど医者らしかった。こいつはどこかで医者になりたいって思っているんじゃないだろうか?
俺は「お前、矛盾してるぞ」、なんて野暮なことは言わなかった。
「太一を担当してる小児科の先生、知ってる人なんだよ。俺も小さいころ体が弱くてよく診てもらった。あの先生なら簡単に太一の病気も治療してくれるって思ってた。治るまで時間がかかるっていうからさ。俺は何も知らないでその先生に向かってひどいこと言ったんだ。その時は俺も毎日病院に行って、一生懸命勉強して、医者を目指していたけど」
「ひどいことって、どんなこと言ったんだ?」
聞いていけないことかもしれないけど、もう口が動いてた。
「医者のくせに病気直せないじゃんって」
幼い史彦と医者の攻防戦が目に浮かんでくるようだ。勝手な想像の中の史彦はずいぶん幼い。
「小児科の子どもが助からなかったら、他の子供たちにはその子は退院したって、伝えられるんだ」
「えっ?」
俺は耳を疑って声を出した。
「他の子どもたちに影響するから本当のことは言わないことになってるんだ」
無理があると思う。本来なら幼稚園や小学生になっているはずの子どもたちが、昨日まで一緒に遊んでいた友達が急にいなくなったら、気がつかないはずがない。
史彦の声は熱を帯びているようだった。
「治らない病気があるから医者がいるんだって、その先生に言われた。そこから俺はもすっかり勉強しなくなったかな」
まるで他人事のように言う。
「子どものころの夢なんてたいていかなわないもんだろ」
史彦は精いっぱいがまんしている表情で笑った。
日本人の平均寿命は男性が七十九歳、女性が八十五歳。我が国は今や世界有数の長寿国になったはずだ。でもそれはメディアで伝えるためだけに作られた情報でしかない。実際に俺らは寿命まで生きられないであろう人たちと顔を合わせている。
「そうかもなあ・・・」
俺は頭の後ろに手を組んで上半身を重力にまかせて倒した。
真っ暗で何にもない空が見えた。
閉めきった車の中にいても外の冷気がすり抜けてきたように寒い。暖房効果は小さいだろうが、買ったTシャツをかけ布団かわりにした。
話が済んでもすぐに寝入る気分になれず、星ひとつない夜空をフロントガラスから眺める。
俺は不自然にポツポツを落ちる水滴にすぐに気がついた。
「雨だ」
史彦も目を見開いた。
わずか数十秒で雨はどしゃ降りになった。ザァ―と広がっていく雨は形を持つものみたいに鼓膜を揺らす。
「うわぁ―、これはすごいな」
大粒の雨が車体を打ちつける音はずっと聞いていると、一定のリズムで心地よく、自然が奏でるオーケストラみたい。
山の植物の葉の間を通り抜けた雨がフロントガラスを流れていく。実は雷が苦手な史彦は、山の上のほうでいつゴロゴロっと雷鳴が稲光るか心配していた。
そのおびえた姿は滑稽でおもしろかった。
俺は自然と笑顔になって、史彦に語りかけた。
「少し寝て、夜が明ける前に、探しに行こうぜ、例の魔女をさ」
「でも、その前に雨があがらないと身動きとれないぜ」
「大丈夫だよ。すぐに雨は止むよ」
「えっ、なんでだよ」
雨の音で自分の声も史彦の返事もかろうじで聞こえるくらいだった。
俺が芽が覚めたの約四時間後くらいで、雨の音はまったくしなかった。