ケイバの壁(#7:2種類の手帳から「JRA」の正体に迫る!②)
ひとまずJRA手帳にある競馬小史の戦前編だけ見てみることにした。
仮にサブタイトルを付け加えるとすれば、
「10分の1」でまとめられる戦前の競馬史
となる。
小史全体は約10ページ程度になるが、
古代から戦前にかけての競馬は僅か1ページ分しか語られていない。
これは教育されないとも言えるし、(業務にあまり関係ないから、笑)価値を見出していないとも考えられる。
高校の「歴史の教科書」みたいなものだ(笑)
ちなみに、JRAの総合職になる(なれる)人は一般的にエリートと呼ばれる層にあたる。
(私とは真逆な存在)
まずは国公立大学や有名私立大学に入学しなければならない。
それが第一条件。
次に馬に関する知識や、馬の取り扱い(乗馬、飼育関係)も採用の重要な部分となるので、入職前から馬術部に所属している育ちの良い人が多く採用されやすい。
実際のところ、JRAは競馬が好き、馬券(ギャンブル)好き(という状態、人間)よりも勉強が好き、研究が好き、かつスポーツマンを求めている。
(無論、この人たちも入職前は馬券を買えるのであるが・・・)
つまり、競馬関係の一般企業(予想関係)と異なり、特殊な人間(超人だけ)がこの組織に携わっているとみなした方が良いだろう。
外側から見れば、JRAという組織は特殊法人の優良団体(=高級・高給な企業)のひとつに過ぎない。
だから学生たちに人気なのだ。
また、たくさんの関連企業・団体(研究所)や子会社を抱えている。
この点も理系出身者の目には魅力的に映る。
たしかに獣医職(募集)もあるし、農林水産省管轄の団体と考えれば、
検討するまでもなく当たり前の話である。
したがって、日本ウマ科学会は基本的には理系の研究団体であり、文系の研究(馬事文化、競馬ファンは脇役)とは一線を画している。
学会大会の同日に行われるJRAの研究会の中心も理系の基礎研究(馬の育成や医療関係)。
これが花形となっている。
(たまに競馬の国際化や馬事文化、馬券売上に関する面白い講演もあるが・・・)
以上の見解は10年以上学会に所属してきた私(競馬ファン)から見た印象だ。
特に懇親会ではウマ科学会の会員とJRAの職員が一緒に参加するので、何かしらの「壁」は身をもって感じられる。
(実を言うと、競馬ファンにとっては場違いな環境であるのかもしれない、笑)。
例を挙げよう。
懇親会はジャパンカップの翌週に行われることが多いのだか、この手の話題が主役になることは全くない。
中には貴重な(笑)競馬ファン型の職員に出くわすこともあるが、それはたいてい現場の関係者(日高育成牧場など)である。
農林水産省職員や馬事部関係者、理系の専門職が競馬史マニア、競馬ファンといった雰囲気はあまりない。
彼らとて組織の人なのである。
勿論例外もある。
『ミスター・ジャパンカップと呼ばれた男:異端の挑戦』(河村清明、2008)に登場するJRA職員は熱い競馬人だ。
しかしながら、このような人はあまり居ないからこそ物語の主人公となったとも言える。
また『世界中が知りたがっているニッポン競馬のからくり』(2009)や『ますます競馬が観たくなるニッポン競馬50の風味』(2012)の著者である増田知之さんもその類であろう。
競馬の国際化に(たまたま)配属された人は熱い人物が多い。
また、経験上現場にいる場長さん(東京競馬場や中山競馬場等)やお客さま事業部の管理職(京都競馬場等の地方)の方は競馬ファン目線で日々の競馬に接しておられると思う。
とりわけ天気の心配が最も大きな悩みだ(笑)
ちなみに、JRAの新人職員さんは名刺を持っていない。
それは配属先が決まる前に長い研修があるからだ。
その点は『JRAディープ・インサイド:知られざる「競馬主催者」の素顔』(河村清明、2003)に詳しい。
だから、先の懇親会はJRA職員間における自己紹介=顔合わせの場(研修の一環)ともなっている。
少し前置きが長くなってしまったが、
つまりは、農林水産省職員、JRA職員(幹部・管理職)、JRA職員(新人)、競馬関係者(中央競馬の調教師さん等)、馬産地(社台グループの有識者等)、獣医(JRA関係の人や一般のホースクリニック)、新聞記者(全国紙やスポーツ新聞等)、大学の研究者(医、理、農)など多様な関係性の中にJRA職員が存在する、ということを説明したかった。
その他に一般の競馬ファン、現場の育成関係者(馬・競馬好きからなった地方の厩務員さん等)、馬事文化研究者(専門や在野)、研究者(文系)が存在し、まるで皇居の外堀のように周囲にいる=構造となっている。
ましてや私のような競馬ファンからもぐりの研究者(文系)になったパターンはこの文化の中心にはおらず、
だからこそある程度の客観性を持って競馬界を俯瞰することが出来るとも言える。
さて、本題に入ろう。
「10分の1」でまとめられる戦前における競馬史(いわゆる競馬関係者のための教養科目)の実態とは?
戦前の競馬史:
701年 競馬が朝廷の儀式として、端午の節句に行なわれた。
1093年 京都賀茂神社で祭典競馬を催す
1862年 横浜レースクラブが組織され、居留外人により日本初の洋式競馬開催
1870年 九段(靖国神社境内)で初めて招魂社祭典競馬を催す
1872年 札幌神社で祭典競馬を催す(札幌競馬の発祥)
1879年 神社の祭典競馬が契機となり各地に競馬場が設置され、共同競馬会が組織される
1880年 日本レース倶楽部設立(西郷従道氏らの発起)
1883年 函館に北海道共同競馬会創立
1884年 宮崎に競馬場設立
1887年 信夫山招魂社祭典競馬を催す(福島競馬の発祥)
1888年 勝馬投票券が初めて日本に紹介され、日本レース倶楽部がこれを実施、1枚1ドルで倶楽部の財政事業が円滑になる
1895年 豪州から競走馬を初めて輸入(14頭)
1896年 現在の函館競馬場が出来上がる
1901年 新潟で競馬開催
1906年 東京競馬会創立、池上で初回競馬開催
1907年 日本競馬会(目黒)、京都競馬会(島原)、関西競馬倶楽部(鳴尾)、北海道競馬会(札幌)、総武競馬会(松戸)、東洋競馬会(小倉)、鳴尾速歩競馬会、東京ジョッケー倶楽部(板橋)創立
1908年 藤枝競馬倶楽部(静岡)創立
馬券発売禁止令公布(各競馬会の収入増減)
1910年 15競馬倶楽部を11競馬倶楽部に改組
1918年 福島競馬倶楽部発足、第1回競馬開催
1920年 中山競馬倶楽部による第1回中山競馬開催
1921年 帝国競馬協会創立、その後12年社団法人帝国競馬協会となる
1923年 競馬法制定(競馬に関する法律が初めて制定され、勝馬投票券の発売が正式に認められた)
1925年 京都競馬場竣工
1931年 競馬法改正(勝馬投票券に従来の単勝式のほか複勝式が採用される)
小倉市北方に小倉競馬場竣工
1932年 第1回東京優駿大競走施行(目黒・東京競馬場)
1933年 府中に東京競馬場竣工
1936年 競馬法一部改正に伴い、日本競馬会創立
1938年 第1回優駿牝馬競走施行(阪神競馬場)
第1回菊花賞競走施行(京都競馬場)
1939年 第1回皐月賞競走施行(横浜競馬場)
第1回桜花賞競走施行(中山競馬場)
1940年 馬事公苑竣工
1941年 セントライトがわが国初の三冠馬となる
1942年 馬券税法の制定(第2次世界大戦に伴う財政上の関連)
1943年 (昭和)19年(翌年)以降当分の間競馬場開催停止(18年12月閣議決定)
1944年 東京・京都競馬場および馬事公苑で能力検定競走を施行
1945年 馬産地で能力検定競走を施行
たったこれだけである(笑)。
特筆すべきは、近代競馬より前にあたる古式競馬(広義の競馬)の勉強はわずか二行で済んでいるということだ!
そして、多くのこと(説明)が抜けている・・・
これを一つひとつ説明しようと思ったが、まるで数式のような羅列でどこから手を付け加えてよいのか全く分からない。。
まずは本当の戦前についての競馬(最低限の基礎知識)に触れる必要性を感じた。
そこで次回は「近代競馬150周年特設サイト(2012年JRA設置)」の競馬史を資料として提供し、これを分析したい。
(ここでも古式競馬時代の競馬は雑に扱われている、小声)
先の雑な年表については(笑)個人的に面白い(注目すべき)項目は太字にしてみた。
今後も戦前の競馬史については大いに語る予定なので、
今回はこの程度にとどめておく。
参考資料:
JRA手帳(主に2014年。理由はこの年はJRA創立60周年にあたるため)
追記:
ウマ娘をやっている方に向けて。
日本近代競馬史は戦前に幾つかの区分があり、戦後も同様に複数の区分がありました。
戦後は、国営競馬時代、日本中央競馬会時代がありますが、ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』は1980年代以降におけるJRAの大改革に影響を受けています。
例えば、JRAという名称、グレード制の導入、顕彰制度の充実化(更なる名馬の可視化)、ターフィーくんの生誕、第2次競馬ブーム以降における馬券改革(馬券種の増加や単勝馬券に馬名が印字されるようになった)が行われたのはつい最近の出来事なのです。
オグリキャップの単勝馬券の頃は数字だった。もうこれを知っている人は「オールド世代」になってしまうのでしょう(笑)
第1回の皐月賞は今はなき横浜開催。
(編集中)
ひとまず一筆書きで。誤字・脱字、関連タグは後ほど修正(予定)
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