「合気道は型ではない」という考えに対する違和感
このnoteはなに?
「合気道は型ではない」と言う意見をよく聞く。この意見を聞くたびになんとなく違和感を感じていたので、今回言語化してみることにしてみた。と言うのがこのnoteである。
合気道は型なのか?型ではないのか?と言うことを考えながら、合気道の稽古というのはどういう構造になっているのかということ私なりに考えてみた。
「合気道は型ではない」とはどう言うことか?
「合気道は型ではない」の趣旨
何はともあれ、まずは「合気道は型ではない」という言葉の趣旨を考えてみたい。
私がこれまでに聞いた範囲でこの言葉が指し示すところをまとめると以下のようになる。
合気道の型は本質を学ぶための方便であるので、最終的には型にとらわれずに本質を掴まなくてはならない。
この「本質」という言葉が曲者で、人によって指し示す内容が全然違う。ある人は関節の攻め方や動きのタイミングを言い、ある人は脱力や意識の向け方などの内面的な技術を言い、またある人は宗教性や精神性のことをいう人もいる。
ただ、なんにせよ普段の稽古で行う型を方便として捉えていることは共通する特徴だろう。
稽古の目標はなんなのか?
こうした考えの人たちは何を目標に、どのように稽古しているのだろうか?
稽古の目標は合気道の本質を掴むことである。(前述したようにここでいう本質は人によって異なる。)
どのように稽古しているのか?は少し抽象的だ。この問いを掘り下げていくと、「どのように稽古して本質に辿り着こうとしているのか?」ということだ。
ここで参考になるのが守破離という伝統的な考え方だ。守破離の意味をまとめてみると以下のようになる。
守:指導者の教えを忠実に守り、型を身につける段階
破:他の指導者や流派の教えから良いものを取り入れていく段階
離:指導者から離れ、自分のやり方を確立し他者に指導していく段階
この守の段階はまだ型にとらわれている段階で、破が本質を身につける段階、離は本質を掴んだ段階だろう。
「合気道は型ではいけない」のか?
前置きが長くなったがここからが私の個人の意見を述べていくターンだ。
結論を言ってしまうと私は「合気道の本質を捉えなくてはいけないということには完全に賛成だが、その上で合気道は別に型でも良いし、なんなら型しかないのでは?」と思っている。
仏像を燃やしたお坊さんの話
「合気道は型ではない」という考えを聞いた時に私が思い出す逸話がある。それは禅の逸話で丹霞焼仏という話だ。これはざっくりまとめると以下のような話である。
丹霞というお坊さんが仏像を燃やして暖を取ろうとしていた。当然罰当たり極まりないので他のお坊さんに怒られる。すると丹霞は「いや、仏像を燃やして舎利を取ろうとしたんだ」と言う。(舎利はブッダの遺骨)すると注意したお坊さんは「仏像の中に舎利があるわけない」と返した。すると丹霞は「それなら燃やしても良いだろう」と言った。と言う話である。
この話では仏像を燃やすと言う暴挙にでた丹霞の方が注意したお坊さんよりもレベルが高いとされている。仏像という形式的な権威に囚われていないからだ。「舎利がないなら燃やしても良いだろう」という言葉も、単なる言い訳や屁理屈ではなく「舎利=仏法の本質」と捉えると見通しが良くなる。本質がないものは燃やしても良いのだ。
合気道の話に引きつけてみよう。仏像、つまり本質でないものとは何か?もちろん型だ。つまり型とは燃やしても良い。必要なのはそこから本質を捉えることだと考えられる。
これだけだと「合気道は型ではない」という意見は禅の逸話になるくらい伝統的で、正当性のある意見ということで終わってしまう。しかし、この話には続きがある。
丹霞の弟子である翠微というお坊さんがある時に仏像を供養していた。それをみた他のお坊さんが「あなたの師匠の丹霞は仏像を焼いたのに、なぜあなたは仏像を供養しているのですか?」と聞いた。すると翠微はこう答えた「焼いても焼ける物でない。好きに供養したらいい」
つまり焼くのも供養するのもどうでも良いのだ。むしろ、問いかけをしたお坊さんは「仏像を供養するのは本質を捉えていない。仏像を焼くような破天荒さこそが必要なのだ」という考えに囚われてたと解釈されている。
再び合気道に引きつけて考えていきたい。型は本質ではない。かといって「型は本質ではない」ということに囚われるのも違うということである。
この本質でない、形式的なものに囚われてはいけないという発想と、それに対する「囚われてはいけない」という考えも結局囚われているのだというアンチテーゼは、大昔から繰り返されてきたのだ。そして、「合気道は型ではない」という言葉はお坊さんが仏像を燃やしたことの延長のように思えてならない。
私は「合気道は型ではない」という人はこの考えに囚われてはいないか?と思っている。別に合気道は本質をとらえさえすれば、型に終始しても良いのだ。ということだ。
守破離の螺旋の中で
いきなりエモいタイトルになったが別にポエムを書き出すわけではない。これまでの議論を受けて、合気道の稽古の中心は結局型なのでは?という話をしたい。
仮にここで守破離の理の段階に達した合気道の達人を想定しよう。その達人は型にない動きを臨機応変に生み出し、あらゆる攻撃法を捌き、崩し、投げたり極めたりできる。いや、もはや投げたり極めたりなどと言ってる時点で筆者である私のレベルが低いのかもしれない。その達人は投げも極めもせず、単に相手との争いを中断させるだけかもしれない。
そうした達人が道場で初心者に合気道を教える時に何を教えるのだろうか?理の段階の人間の視点から、結局は守の段階の型を教えるのではないだろうか?
つまり普段私たちが稽古するように、体の変更(転換)から始まり四方投げや一教(一箇条)をやり、座技呼吸法で稽古を締めるのではないだろうか。
そして入門したての初心者は慣れない半身に悪戦苦闘し、右足を出すのか左足を出すのか迷い、熟練者に技がかからず悩むのだろう。
つまり理の段階の達人だろうが教えるときは守の段階に降りなくてはいけないのだ。
合気道の伝承というのは守→破→離→守→破→離→守→……というように螺旋状になっている。そして、その中心に据えられている軸こそが型なのだと私は思っている。
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