60代、おとなの余裕で目の前の事実に関心を持つ!
弱視の僕は、“信号は青ですよ!”この一言があれば安心して前に進むことができます。
もちろん、声がかからなくても立ち止まったままでいるのは嫌なので暗中模索でも一歩を踏み出すけどね。
人によってはなんでもないことが、自分には難しかったり、行動するのに勇気がいることってありますよね。
僕にとっては交差点の横断歩道の信号が「赤」なのか「青」なのがまさにそれ!
還暦も近い年齢で、思うように目が見えなくなって決めたことは、これからの人生で自分にできることで、誰かが助かることは積極的に行うこと。
何かで大成功するとか、もう一踏ん張り命を燃やして何かを成し遂げるといった高みを目指すのも良いが、それよりも些細でもできることを積み上げていこうってことです。
その多くは、その気になれば誰にでもできることだと思います。
人間の価値を何かで定義づけることはできませんが、誰でもできることを実行する人、こだわりなく親切心を示すことのできる人。
人として本当に豊かな人とはそういう人なのだろうなと感じるのです。そして、そうでありたい。
交差点で声を掛けてくる人はほとんどいない
白杖を持つまでに、かなりの心の葛藤がありました。
段々と見えなくなる自分のことを肯定することが嫌だったのもありますが、人の目が気になるというのが一番大きな要因でした。
そもそも白杖は自分の進行方向を確認する道具であると同時に、自分以外の人に自分の存在を知らせるためのものですから目立ってなんぼです。
白杖の効果は絶大で、人混みで人にぶつかることは無くなりました。
しかし、交差点で信号待ちをしていて信号が青に変わっても、白杖を持つ僕に声をかけてくださる方はほとんどいない、千人に一人もです。
大袈裟ではなくてこれは事実で、当の本人が一番驚いています。
因みに、電車で席を譲りましょうと申し出る人もほとんどいません。
足腰は健在ですから、席は譲っていただく必要は全くありませんが、交差点の信号の色がわからないのは結構シビアな問題です。
声をかけてこないというのは、多くは白杖を持っている僕の存在を認識していないからだと思います。
白杖を持った僕は、景色にすぎません。歩いていてぶつかりそうになるといった自分のテリトリーの範囲に入った時にはじめて、景色が実像に変わるのです。
愚痴っているのではなく、むしろ面白い!
人は自分に関心のないものは目に映らないものです。
妻曰く、我が家の自宅から駅までに美容室は5件あるそうです。妻には見えていても、目が見えている頃から僕には見えていませんでした、でも飲み屋がどこにあるかは僕の方か詳しい。
電車の中で目の前に立ったとしても、関心がなければ白杖を持つ人物はスクリーン越しの世界の単なるエキストラ。
最も今は大抵の人は携帯のスクリーンに夢中なのでしょうが。
良くも悪くも無関心、これに日本人特有の照れも加わって積極的に声をかけられることは少ないのでしょう。
60代はおとなとしての関心を持って生きる
同年代の多くの人は、その人なりに懸命に生きてきたのだと思います。
そろそろ闇雲に走るのではなく、目の前の景色に関心を持ち、心たおやかに時間を刻んでいきたいものです。
今まで見えていなかった景色の中で自分にできることはたくさんあるはずです。
僕は白杖を持った人や、盲導犬を連れた人に信号の色を教える、背中を押すことはできません。
しかし、その他のことで誰かの役に立つことはたくさんあると感じています。
自分の行動で、誰かが一歩踏み出すきっかけになればこれほど楽しいことはないのではないかと思っています。
この先40年とは言いませんが、自分の存在が誰かにとって「信号は青だな」と背中を押せるような行動をとっていきたいと思います。
60代、あくせくせずにおとなの余裕をぶちかましましょう!