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The Star of Life
プロローグ
ガタン、ゴトン、ガタン_______。
電車に揺られて、恵里は目的地へ向かっていた。
耳にはエアーポッツ。好きなKポップアーティストの曲を聴いている。
毎日乗る便なので、周りの景色には左程気を使わない。
この5年間で慣れた道。これからもずっと歩んでいくのだろうか。
頭の片隅にふっと浮かぶことがある疑問は、深く考える前に、水泡のように現れては消える。
夢や目標は、日々のルーティンに圧倒されてほとんど忘れていた。
最近、周りで転職した人や、結婚した人がいる。自分とは違う人だけど、自信をもって別の道へ歩むその姿に憧れることもあった。
特に、人間関係に悩んでいる今は。
平凡な社会生活
「次は、終点、終点、〇〇駅です。〇〇線へのお乗り継ぎは____。」
車内アナウンスの声が聞こえた。
降りなければいけない。が、足に負荷がかかっているように重くて動かない。
恵里は意識的に心と身体を切り離すようにした。心がつながっているから身体が重いんだろう。だったら今は余計なモノ。
強い人間になりたい、とも思う。でも、自分は今までもこうだったし、この先も変えられない気がする。突然パッと違う人間になれたらなと思うこともあるが、それは物理法則に抗っている。そんなことはあり得ないのだ。
子供のころに見た夢は、夢だから「夢」というのであって。
現実ならそれは事実である。現実はこんなものだ、と思うことがたくさんあった。人にがっかりしたことも。
経験的なそれは、恵里の頭の中にこびりついている。なにか新しいことを始めたいと思っても、いつもためらうし、何事にも消極的になってしまう理由も、結局はこういう経験値からきている。
電車内の入り口の人から順番に降りていき、恵里も最後の方で立ち上がると、後に続いた。
その日の夜。
帰りの駅近くのコンビニで買った総菜を片手に1人暮らしの小さなアパートの一室に戻ると、休む間もなくバスタイム。
濡れた頭にターバンを巻いて出ると、ゆうべ大量に作って残ったカレーを温めた。
誰に何を言われるわけでもなく、一人暮らしゆえの気楽さ。それはあるが、一方で孤独とこの先への不安を感じていた。
「あーあ。」
今日もつかれた、と思った。
起きた出来事を思い出す。就いたばかりの頃は情熱があったものだが、最近は思うようにやる気が出ない。ボーっとしていると上司に叱責されることもあった。
かといって、言われて突然やる気が出るわけにもいかず、日々を惰性で続けているような状態だ。
下に後輩も増えて、自分より確実に出来る子もいる。これは自分には無理だ、と思うようなことを難なくこなす姿は頼りがいがあるが、同時に劣等感も生まれて複雑な感情になる。
しかも、ある先輩に執拗に仕事を回されてばかりいる。「恵理ちゃん、これもやっといて」あるいは「電話お願い」が決まり文句だ。
そのことで最近悩んでいた。嫌われてるのではないかと思うが、その原因は分からない。
分からないことだらけだ、なのに考えてもどうしようもない。
考えることが多すぎて、頭がパンクしそうになる。でも、明日もすぐやってくる。
「ダメだ、寝よう」
一人暮らしを始めてから独り言が増えた気がする、と思いつつ、食事から寝る準備までのルーティンをこなした。
友人の助言
pipipipi.pipipipi.pipipipi.
iPhoneのアラーム音で目が覚める。
朝になると、余計に憂鬱になった気がした。
また、同じ朝を繰り返す。
恵理は職場の懇親会に参加していた。
翌日は休日なので、お酒も飲むつもりだが、たしなむ程度でセーブしながら、普段食べない豪華なビュッフェ形式に心踊った。
仲のいい同僚と今日仕事であったことを話していると、あっという間に親睦会の終わりの時間がくる。二次会には参加せず、恵理は一人駅に向かい電車に乗る。
”美味しかったなぁ”
舌鼓を打った料理の数々を思い浮かべながら、幸福な気分で電車に揺られていると、今日聞いた話も思い浮かんでくる。
同僚の百合ちゃんは、最近本を買って小説を読んでいるらしい。まだ少ししか読み進めていないが、展開が面白くハマりそうとのことだった。
他の人に電子書籍で読まないの?と聞かれると、今でも充分YouTubeを見たり聞いたりしているので、何でもいいから何か違うことをしたい、それに本好きな友人がいて、その子が貸してくれた本なのだと話していた。
恵理もその話には納得できたし、新しい趣味を見つけて楽しそうな百合ちゃんの姿を見ていると、いいな、自分も何か始めたいなと思った。
そのことを伝えると、後輩に「えー、先輩、一緒にボルダリング始めましょうよ~」とせがまれた。後輩には似合うかもしれないが、申し訳ないけど興味が湧かないのでその場では断ったが、諦めきれなかったのかその後別の人にも声をかけていた。
”百合ちゃんは遠距離の彼氏もいるらしいし、結婚を機に退職するんじゃないかって一部では噂もあるけど、やめてもらいたくないなぁ…”という正直な気持ちと、いや、仕事でいつもお世話になっている側だから、その人の幸せを願わなきゃいけない。と思う相反する気持ち。心の中のもやもやとした悩みは、増えるどころかより複雑に絡まって溜まっていく気がした。
「漠然とした悩み?」
「うん。取り柄がないとか、将来が不安とか」
休日、大学時代の友人と駅のカフェで会っていた。
「あんたねー、そんなユーウツ病みたいな症状を私がなんとかできると思ってんの?悩んでるんなら、動かないと何も解決しないよ」ユーウツ病とは聞いたことがないが、病名で呼ばれると病んでいる気がしてくる。
「日奈にはないの?」
「今んとこはないけどね、っていうかそういうのは頭で考えるから余計にドツボにはまるんでしょ。考えるのやめなさいよ。うつ病になるよ」
この友人は一言いえば二言も三言も返ってくるような喋り好きだが、それは頭の回転が速いからだ。お互いにタイプが違うのが功を奏したのか出会った頃から意外と気が合った。
「考えるのやめるって言われても…」
「考えちゃう?」
「うん、まぁ」
「じゃあ、何か夢中になれること始めてみたら?あんた裁縫好きだったじゃん。あ、でも裁縫だと余計にあんた暗くなりそう…。ヨガでもしてみたら?」
「裁縫は、もう目が悪くなるから必要以上にはやらないことにしてるの。ヨガ…。できるかな?…。っていうか暗いとか言わないでよ!」
日奈は、私の怒った顔を見てあははははは、と大笑いすると、言った。
「案ずるが易し、よ。ほら、私ってなんでもやってみるじゃん?」
「うん」彼女と通った大学時代。日奈は一つとして落ち着くところがなく、複数の部活やサークルを行き来して、バイトもこなしていた。
「そりゃ、私だって苦手な事や不安なこともあるわよ。でも、やってみて終わるとそれは良い経験だった、ってことの方が多いし、意外とできたりするものよ」
「でも、日奈みたいになんでもうまくこなしたり同時並行できたりする自信ない…。」
「私は私、恵理は恵理!同じことする必要はないじゃない。たくさんやる必要もないし。私がサークル3つ入ったりしてたのは、全部やりたいものだったからよ。恵理は別に興味なかったじゃん。」
そういわれてみれば、確かに。日奈の言う事には一理ある。
この賑やかな友人と話していると、複雑に絡まり合った糸玉がするする解けていくような気持ちになった。
恵里の表情も明るくなる。
「うーん、じゃあ、今度一緒にヨガ体験行こう!」
「え~!」
新感覚
「えー!それで来てくださったんですかぁ。」
「そうなんです!今日はよろしくお願いします。」日奈とインストラクターの声を聞きながら、恵里は恥ずかしくなって何でもかんでも話す調子のいい友人を睨みつけた。
「日奈、そこまで話さなくていいじゃない。」
「え?あ、待たせてごめん。じゃあ教室に入ろう」
社交性の高い友人は、話に夢中になると周りが見えなくなる。
二人がクラスの中に入ると、熱気とアロマの爽やかな香りに包まれた。
「うわー。いい香り!私これ好きかも」
「ホットヨガっていうだけあって、部屋の中熱いねー」
「うん。もう汗かきそう」
恵里たちは体験参加としてレッスンに参加させてもらうことになっていた。
他のレッスン生たちはすでにマットを敷いて、各々自分の思うようにストレッチなどをしている。
「本日の先生は、インドから来日してくださったアリ先生です。皆さんはラッキーですね。今日は滅多にない機会ですので、是非、この空間を楽しんでいってください」
若い女性インストラクターが挨拶をすると、日本人ではない顔つきの精悍な男性がその後ろから現れた。
ここの教室のインストラクターの知り合いということで、今までにないことだが、今回たまたまレッスンしてくれることになったという。
他のレッスン生も興味津々の顔だ。恵里も、日奈と目を合わせてほほ笑んだ。
アリとよばれた先生は、紹介を受けて突然流ちょうな日本語で話し始める。
「えー、皆さんの中でヨガが初めての方はいますか?いたら、ちょっと手を挙げてみてください」
日奈が一番に挙げたのを見て、恵里もちょっと手を挙げた。周りを見れば、他にも5人組の女の子が手を挙げている
「思ってたよりちょっと多いな、7人ですね。分かりました。ありがとう。手を下げていいですよ。じゃあ、今日はいつもよりレベルアップして難しくしてみましょうか。」
先程、初心者が多いと言っていたし、先生自身も初見の生徒たちなのに、面白いことを言う。
笑顔で冗談を言われて、一瞬、教室にいる生徒の空気が止まったかと思うと、次の瞬間どっと笑い声があふれた。教室内が一気に和やかなムードにななる。
「あぁ、ごめんなさい、冗談ですよ。じゃあちょーっとレベルを下げておくよ。初めての方は、これは無理だと思ったらストップ、ですよ。はい。じゃあ、アリです。今日はよろしくね。」
ヨガ経験のある生徒たちも、ついさっきまで見慣れない先生に緊張していたのに、今は講師のフランクな態度に笑顔になっている。日奈も、恵里もこれからどんなことをするのだろうかとワクワクしていた。
期待で皆の顔が輝く。