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四)商品開発

商品開発

職人気質の父とは異なり、営業マンとしての越智は、積極的にお客様の声を聞くことには自信があった。

いろいろな立場の人、さまざまな意見を聞きながら会社の職人とともに商品開発する、職人は新しいことに取り組むことをいやがる。作る側の意見も尊重しなければならない。なぜなら別子飴本舗の商品を作るのは、すべて彼ら職人だからだ。

意欲を持って取り組んでもらわなければいい商品はできるはずがない。彼にはそれを受け入れるだけの柔軟さがあった。それは、どの立場の人でも人として尊重する彼の自然な意識から来ている。

新商品を開発する上で彼がこだわったもう一つが、地域の素材を利用するということだ。幸い愛媛県には果実など全国に良く知られたものから穀物、野菜、塩など全国的にも珍しい優れた素材が豊富にある、彼はそれを活かそうとした。

彼は職人達と商品開発に取り組んだ。いくら手作りで小回りが効く別子飴の生産現場でも、新しく商品を作ることは大変である。作ったからといってそれがすぐ、売れるわけではない。

いくら工夫したからと言って、誰も想像すらしなかったような画期的でおいしい商品が簡単に開発できるはずもなく、似たような海外製品の極端に安い価格に対応することも難しい。

彼が正式に経営を引き継いだ平成3年(1991年)は、まさしくバブルが崩壊した年である。
ただでさえ、海外製品に対し価格競争力の弱い別子飴本舗の商品は、売り上げが最低となった。

商品を開発し、彼の営業力をもってしても、売り上げは低迷し続けた。
バブル景気の崩壊後の不景気とともに、それから約10年間彼の戦いは続くことになる。

出口のない営業を繰り返しながら、高速道路をひた走る。
「このまま次のトンネルの入り口の壁に突っ込んだらずいぶん楽になる。」そんな思いが頭をよぎった。
「この次のトンネルで、次のカーブで」
と幾度となく思っては、その都度思いとどまった。

彼は、自分勝手に途絶えさせてはならない伝統という重い荷物を背負っていた。従業員達の生活も彼にかかっていた。もちろん自分自身の家族を守らなければならなかった。

浮かんでは消える破滅的な思いを、もう一歩というところで踏みとどまっていた。

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