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何者かでなければ愛されないと思っていた|感情時代の心理学


完璧でなければ、一番でなければ、希少価値がなければ、役に立たなければ
愛されないと思う
すると、能力だけを欲しがる連中に囚われる

弱さは醜く美しい
あなたのキモさが、あなたの魅力が、「あなたらしさ」が詰まっているからだ
あなたらしさの種である
それを許す
社会が許さない?
でも、まずあなたが許さなければ
そうすれば、許す世界が、人が集まりはじめる

私は勝ち続けようとした
自分を後回しにして、「誰かのために」
そうあることで、人にも社会にも受け入れてもらえると、「惨めな自分」を消せると、錯覚した


病気と病院のゴタゴタ

 発症したのは、8年前だ。
直接的に命に関わるものではないが、「炎症」が起こると、早急に入院治療が必要になり、もちろん命にも関わってくる。3年程前までは危ういことが何度かあり、そのために心身が落ち着かなかった。
西洋医学では根本的治療法はなく(オペの選択肢もあるが予後がほぼ悪いらしい)、対処療法で付き合うしかない。現在はコントロールが効き、その他は非常に健康だが(検診オールA)、体の動きや身に付けられる物に制限がある。


「私は自分の体と心の声を聴いてきたのか?」

 この想いが強まっていた頃、色々な不運が重なって患者から顔を殴られてしまった。患者と私の名誉のために書くが、主治医のミスだ。
患者は、得てして主治医に本音を言えないものである。治療される側と治療する側のパワーバランスは同等になりにくい。本来は契約の下の「共同作業」なのだけれど、なかなかそうもいかない。患者の気持ちを極めて慎重に扱わないと、信頼関係は結べないのだ。
対処に詰まった主治医は、私に患者を投げた。もともと、右肩上がりに回復を見せない患者は投げ出すような医師だ。
ここは精神科なのだが・・・?
「回復する患者さんだけを診たいなら、整形外科にでも移れば良いのに・・・(*1)」というのが、皆の見解だった。


 *1 整形外科でも、難治症例や高齢の方の場合はそうならないことがあるのはもちろんなのだが、精神疾患との比喩である。


この患者だけでなく、突然ほぼ丸投げしておきながら、患者と私の治療関係が上手くいき始めると、嫉妬してパワハラしてくることもあった。
ある時は、嫉妬心から不安が高まりまくったのか、「私って話を聞くのが上手いよねぇ!?」と、事務方スタッフに聞いて周り、皆を辟易させたという。
自己の無力感を刺激されて辛いので、治らない患者を嫌がる医師は少なくない。しかも、その気持ちを自覚できていないことが多い。
このドクターの問題行動は科全体で認識されていたが、医師不足もあり、辞めさせるのはなかなか難しいだろうと言われていた。
(後に、実は医局を追い出されていたとわかった。他所でも様々な禁忌を犯していたらしい)

 鬱積した感情を出しやすい対象に向けて出すことは、健康の範囲に収まる人にも、そうでない人にも、よくあることだ。
治療プロセス上必要なことでさえある。だから、それが破滅的な形を取らないよう、患者と治療者の安全が守られるよう、様々な配慮が必要だ。
しかし、主治医も組織もそれを怠って、全部を私に投げた。
(みんなー!?私を置いて病棟に行かないよ!?)
起こるべくして事件は起こった。とても悲しいことだったが、おかげで私は気が付くことができた。

「何をやっているんだーー!!!」
私の能力を都合良く使われているのに、必死に応じようとして、その結果がこれ!?暴力行為→一発出禁→逆恨みで、もしストーカー化しても生活は守られない。できるだけ多くの人の幸せを願いながら、謙虚にやってきた結果が、これ!??!!
私は馬鹿かっっっ!???!!!!


今となっては、本当に感謝している。気がつかせてくれてありがとう!
「もうここにはいられない」
そう決意してから2週間も経たないうちに、現職場から学会の誘いが来たのをきっかけに、仕事が決まった。
(私の臨床歴では珍しいことで、一般的にはあと10年くらいかかるポジションらしい。ラッキ〜)

 動画でも触れたように、「何者かになりたい」「人に認められたい」という欲求は、不自然なことではない。私達は「社会」で生きていて、「結果」が収入や生活の質に繋がることが多いのだから。でも、それに飲み込まれないでほしい。人生の目標が100%それになると、心が空っぽになる。
幸せの土台は、「“存在”を受け入れられる」体験だ。それは、言動や容姿、成果など、外側の条件の「評価」に基づかない。
“存在”を受け入れる人が一人でもいれば(*2)、貪るような承認欲求、食欲、物欲、性欲は自然な形となり、「本来のあなた」が現れる。欲自体は悪いものではない、程度問題だ。これらの欲求に、本当に求める「愛されたい」という想いが無自覚に投げ込まれると、それらは増大し、「愛されること」から遠のく言動をとるようになる。いつまでも満たされないので、また欲求が膨らむ。

これは依存症のメカニズムだ。
満たされなさを手取り早く一時的に「埋めている」。
そうやって必死に生きているのだ。


*2 まずはあなた自身があなたの存在を受け入れることが必要なのだが、なかなかに困難なので(それができたら苦労しない)、ある程度人を頼りつつ同時並行でセルフケアに取り組むのが現実的である。



もう、私の心を震わせるもの以外には応えない

「我、あるがまま。わがままである」(神田橋條治)
曰く、「あなた、天を相手にする人。見えすぎることは悲しみだね。でも速く走れる人は”合わせる”しかないのだよ」
先生、この点だけはまじで承服しかねます!!!だって、本来は皆、天を相手にする存在ではないですか?

 なお、パワハラ医師は殴打事件の責任を追及され、医長を含めた外野が見守る中、私に陳謝する運びとなった。最中「ざまああああああ♡」しかなかった😘


“何かを勝ち得たり他者に与える存在である”ことでしか、自分自身を愛せないし、他者からも受け入れてもらえない。
そんな恐怖に縛られた男性たちが、自分の弱さを許せるようになるための指南書
 ーー辻愛沙子(クリエイティブディレクター)

自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと


こんどの改訂では、いろいろと変えたところがあります。まず本の題名を「精神科」から「心身」へ変えました。そのわけは、1ボクの診療はだんだん精神科でない患者さんが増えてきたこと、2ボクは老人になって、精神科の新しい専門知識を知らない医師になり、精神科専門医の資格も持たない、「精神科で長く働いてきたただの老医者」になってしまっていること、3治療の方法が普通の精神科ではやらない、漢方、サプリメント、鍼灸、食養、気功、整体、などのごちゃまぜになってしまっていること、4治療や養生を考えるときに「心身は不二である」と思うようになったこと、などです。 五十年を超える年月のあいだに、ボクの養生観は徐々に変わりました。しかし、この本の芯にある初志は変わっていません。ボクの好きな養生法は、1熟練や特別な知識がいらず、自分でできて、人に教えてあげることもできる。2お金や道具がいらず、いつでも・どこででもできる。3天然の食品や自然の物以外を、できるだけ体内に入れない、が方針ですが、4ボクは八十歳を過ぎ、週二日の診療が精一杯となりました。これが最後の改訂になるので、いま行っているいろんな技術のなかの、残しておきたいものを書いておくことにしました。

心身養生のコツ


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