どういう奴がいい男なのか。
23という年齢にもなってくると、早い人なら結婚を意識しだすものだろうか。大学院まで進んでしまったので未だ学生だが、少し焦りも感じる今日この頃だ。
実はブライダル関係に就職した友人とこの間会った。その人によると、多くの人の結婚にまつわるあれやこれやを見ていると、結婚というものの難しさや闇も色々見えてくるらしい。
その人にはなりたい理想の自分があって、そこからバックキャストしていくと何歳までにこんな人と結婚…みたいな思考になってくるという。今、お付き合いしている人とそのままずるずる行ってしまってもいいのか、それとももっといい人を探すべきか。なかなか答えの出ないことを悩みを抱えているのだなあと感じる。
どこか他人事感があるのは、自分がそんなことを考えられるほど大人ではないからで、ただその人は年齢を重ねて結婚に苦労する人をたくさんみてきているからこそ、多くのことを先回りして考えてしまうのだと思う。
さて、そんな話のなかで、「いい男」の定義が話題になった。まあそろそろ疲れてきた深夜の戯言。だが意外に深い話かもしれない。「いい男」とは一体何なのだろうか。ちなみに異性愛者女性の結婚への悩みから思考が発展したのと自分のありたい姿として「良い男」像を考えたが、これから論じることは男女問わず理想の在り方だと感じる。
それでは。
ある友人は、「いい男」とは場の和を乱さない男だと言った。いかに空気を読んで優れた立ち回りができるか、他人への思いやりを持ち続けるかが大事であるということらしい。ただ、私はそれには賛同しなかった。
私が思う「いい男」はずばり、「自分が一番ピンチの時に助けてくれる男」だ。特に、危険を顧みないような、自己犠牲をともなうこともいとわない、そういう行動がとれる奴だと思う。津波の時には自分だけでも高台に逃げろというのは正論だが、そういう時にどうしようもなく、助けに戻ってしまうような。これは論理的にそれを推奨するわけではまったくないが、自然の感情として、そうしないといけなくなってしまうような、そういう感情の働きができる男こそが真の「いい男」と感じていしまうのだ。
結局のところ、甘い言葉も立ち居振る舞いもすべて、演技が可能だ。皆が本心を隠して生きることができる。そもそも本心が何かすらわからないような世界。
だからこそ、結婚への不安なども出てくる。スペックがもっと高い男、もっと自分に金を使ってくれる男、自分が求めている言葉をくれる男、、そういった際限のない欲望によって、自身の渇きは永遠に潤されることがない。まるでのどの渇きを塩水で癒そうとするかのようだ。全ての物事をステータスで推し量る、そこにはステータスの外側にある感受性は排除されている。
不安感が人々を支配している。それを最近とても強く感じる。何も信じることができない。常に心理的に安全でないから、当然のごとく安心もできない。しかし何かにすがって安心していたい。仮初の安全感覚でもいいから、やすらいでみたい。そういう欲望が人々の孤独の中に巣くっている。原因を考えれば個人の分断・孤立化がネット化さらにコロナ禍を経てさらに加速し、世界の政情も混迷を極めているためだろうし、当然の流れではある。
それに付け込んで甘言を囁くような人も多いだろう。いかに格好よくみせるかいかにすれば相手が安心感覚を持つのかを研究しつくしたような。それは相手の感情を自在にコントロールするような技術。不安な人の感情は非常に容易に操作される。ただそこには本質的な相手への愛は存在しない、というか人間存在に対する愛が存在しない。
もしかしたらそれすら自分の不安感を埋め合わせるための、自信を保つための行為かもしれない。不安の渦にからめとられた者の遊戯。
本当の心はいざというときにしかわからない。本性が現れ出るとき、真贋が見えるときはいつもピンチの時だというのは多くの映画に明確に描かれている。
まあとはいえ、自分がそんな存在になれるかというとなかなか難しいだろうなあ、とも。それがあまりに現実的にはあり得にくいからこそ、そこへの憧れのベクトルも生まれるのかもしれない。
実際、そんなピンチの場面というのはそうそうないのだから、それよりも現実的な「いい男」をまず目指してもよいかもしれない。その場合は多分、困っているときに逃げずに助ける奴ということだろう。自分が忙しくても、作業が遅れている人を待って見捨てず助ける。そのくらいなら目指せるだろうか。抽象的に言えば、自分の得意な領域で、その力を利他的に使う行為。お医者さんが飛行機の中で治療をするような。
易きに流れず、自分の弱さや不安と向き合いながら、少しずつ「いい男」に近づいていくことが大切なのかもしれない。