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建前を内面化していく不幸(就活生目線)

私、SGも修士1年生ということで、就活が本格化していく時期となった。
その中では、建前としてのESや面接が必要になってくる。

自分が何をしたいのか、何ができるのか、それが企業とどうマッチするのか、そういうことを示す必要がある儀式、それが就活なのだと思う。もちろん、企業に合わせて自分の少しづつ違った面を見せたり、場合によっては盛って話をすることも戦略として必要になるのだろう。

こういった経験は、私にとっては就活が初めてなのだが、社会人であれば日常的に行う必要があることなのだろう。ある意味、社会人になるための通過儀式的な側面があるといえる。

もしかしたら、多くの人が学生時代からそういったことをしているのかもしれない。多くの人が周囲にどうみられるか、をかなり意識しているようだ。それによっていろいろと悩む時期が思春期ともいえる。幸か不幸か私は、そういった感覚に疎いため、小中高大とやや異端者として生きてきている。

他人が面白いということがなぜかあまり面白くないし、逆に自分が面白いと思うことは他人にとってあまり面白くない、という感じだ。また、自分がこれはしてもよいだろうと思うことが他人からしたら異常な行動に見え、自分からしたら異常だと思うことが他人からしたら普通に見える。そんなことがよくあった。

このことは特に小中の間、周囲との軋轢やいじめ問題などを生んだが、それを乗り越えてみると、案外と良いことも増えてきた。逆に私にしか出せないエッセンスのようなものがあるようだ。これは私自身は強みだと感じることだ。私が自然に楽しくしていることで、それを不思議がったり面白がってくれるというのは悪くない。

ただ、就活となってくると話は異なる。私の根本は社会人化されたビジネス的なブランディングと対極にあるからだ。これはしかし、実は私だけではないと思う。少なくない人が、それを意識しているかどうかは別として、社会人化されることで苦しみを感じているように思うのだ。

そういう人にとって、ビジネス的な自分のブランディングは結構難しい。特に自分がそういう場にふさわしくない方面で個性を発揮できる人であればなおさらだ。特に日本のような環境で、企業に役に立つ人材というのは多くの場合、変わり者でないことを要求されるからだ。

変わり者でない、というのは多くの人と価値観が近く、「常識的」な行動がとれるということだ。わかりやすい例として、身だしなみで言えば、男は髭剃り、女は化粧みたいな話だ。これらはもちろん強要することはできない話だが、採用する側は企業だから、それらを周りに合わせてできない人については採用しないという選択がとられることになる。だから、個人で稼げない人については、必然的にそういった行動をとる必要があるのである。

そういう流れの中で泳ぐことになると、建前というものの重要度が増してくる。こういうことを聞かれたらこう答えよう。こういう風にみられるふるまいをしよう。そういう演技を続けるうちに、それが自然に出るようになってくる。いわば、社会人化されていくといえる。

しかし、果たしてそれは幸せなことなのだろうか。もちろん、多くの人にとって企業に雇用されて働くことで、暮らしを成り立たせることができる。だから、そこにある程度適応することは必要だ。しかし、それがすべてではないことについても常に意識を置く必要があるのではないかと思うのだ。

自分が本当は何をしたかったのか、という問いは常に問われるべきだ。何が本当に幸せだったのか、それを塗りつぶして忘却の彼方へ置いていく生き方で良いのだろうか。

もちろん、多くの場合は欲望は単なる他人の欲望のコピーに過ぎない。あの人が羨ましいとか、これが欲しいとか、みんなが手に入れたいものを自分も手に入れたい、そんな感情。直接的でなくても、基本は誰かが欲望しているものを自分も欲望していく、それすら周囲に合わせたものになっている。

だからここでいう、本当は何をしたかったんのか、というのは、なるべくそこから離れた、個人的な欲望のことだ。

それは何かと比較する必要のないものだ。絶対的な享楽といってもいい。そういったものについて探求する必要がある。心の赴くままに振舞っていて出てくる幸せだ。

社会のルール、常識、他人の目、それらに従っていては得られない喜びはそこにあるはずだ。他人から与えられる、みんなに向けた一般的な欲望吸収装置では得ることのできない喜びは確実に存在するはずだ。他の人から見たら意味不明な行為でも、自らの喜びとなるような物事を失ってはいけないと思う。

しかし、多くの場合、そういった自分の内面は、社会人化されている自我とは矛盾する。人間は、禁止されたものごとほどやりたくなるし、欲望するものは大抵必要性や経済合理性の範疇に収まらないものごとだ。つまり、社会人化されていないものごとの中にこそ個人的な欲望は存在しているのだ。

そう考えると、社会人化している時間が長くなれば長くなるほど、その感覚は失われ、何のために生きているのかがわからなくなってくるかもしれない。目先の自己承認や一般的な欲望の満足という陳腐な幸せ感覚によって、本来自分が欲していたものを忘却し、つまらない人生を生きていくのではないかと思う。本当はもっと強度の高い本質的な幸せがあったはずなのに。。。

だから、建前を内面化してはならない、そう強く思う。建前は建前としてビジネス世界で演じ切る。しかし、それはあくまで生産性を高め、自分の食い扶持を稼ぐためのゲームでしかない。その意識を失わず、良い意味の異端者であり続けたい。


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