自己イメージという虚構に縛られて
1.自分を定義できるのか
「自分はこういう人間だから~」といった言葉を聞く機会が増えた気がする。この間22歳を迎えた私の周りは学生とは言え、年齢的には社会に出ているといえる。この年齢になると、こうなるものなのだろうか。昔を思い返してみると、ある時期まではそんなことはなかったと思う。
人間は、子供時代(物心つく前?)はわざわざ「自分は~」などと考えることはなく自由にふるまっている。ある時期から、「自分とは何か」ということを考え、自分という存在を形成していく。それは発達の中でのアイデンティティ形成の課題として適切なことである。一方で、人間はともするとそれに縛られがちであるとも思う。これが今回書きたいことだ。
さて、アイデンティティの形成の中で、自分という存在はどのようにして確立されていくのだろうか。それは突き詰めれば、周囲との比較でしかありえない。例えば、自分という人間を定義したいと思うとき、どうすればよいだろうか。私が所属している学校、私の性別、身長や体重、私の趣味、好きな食べ物… いろいろな自己紹介ができるかもしれない。しかし、それらはすべて「私以外」の物事だ。「私」を定義するのに、「私」以外のことを述べることしかできないのだ。つまり、本質的には「ある存在」はそれとつながる「他の存在たち」との関係性の中にしかありえないのだ。
これは数学でいうところの「点」のようなものともいえる。「点」は座標系の中では確かに特定の場所を表しながら存在するが、数学的には大きさが0であり実体としては存在していないともいえるのだ。このアナロジーで考えれば、「ある」のに「ない」もの、それが自分である。そして実はこの世のあらゆる存在がそうなのだ。これは、仏教的に「空」と呼ばれる考えと合致しており、古来からの人類の発想の1つであるといえる。
2.自己イメージの実体は存在しない
ここまでで、「自分」という存在はそれ自体では存在しないことがわかった。しかしながら、発達過程で「自分」を意識するようになっていくことも明らかだ。この2つが両立するために必要なのは虚構であり、ストーリーだ。
多くの人は自分が過去にした選択に沿って、自分という存在を自己認識したつもりになる。そして、その行動はそれはそのまた過去の自分の選択に沿ったものであり、過去に作り上げたストーリーの延長線上にある。このようなサイクルが回ることにより、人は「自分」という虚構の存在をあたかもそれ自体が実体であるかのように信じ込んでいくのではないだろうか。
例えば、ある人が子供の頃からピアノを習っていたとする。その人はピアノが好きだと思ってたが、実は親からの期待や周囲の評価に応えるために続けていたのかもしれない。しかし、その人は自分がピアノを選んだことで、自分は音楽的な才能があると自己認識する。そして、その自己認識に沿って、音楽関係の仕事や趣味を選ぶ。その行動は、過去に作り上げた「自分は音楽が好きで上手い」というストーリーの延長線上にあるといえ、このサイクルの繰り返しで「音楽好きで得意な私」という虚構が完成するのだ。
もっと抽象的な性格もこれと同様だ。ある人が周囲から「明るいね」といわれる。自分も明るい性格だと思っていたが、実は明るくしないと家族との関係性が維持できない状況にあったのかもしれない。しかし、その人は明るくふるまう中で、自分は明るい性格なのだと自己認識する。そして、その自己認識に沿ってさらに明るくふるまおうとし、その繰り返しで「明るい存在である私」という虚構が完成するのだ。
これらのことに共通するのは、始まりは常に忘却されているということだ。一卵性双生児ですら性格は大きく異なる場合があるというように、人間の性格というのは環境要因によって大きく決定づけられるというのは科学的に事実だ。これを今回の文章に沿って言えば、「自分以外の存在」によって定義づけられるしかない「自分」を、その通り「自分以外の存在」から方向付けられたにもかかわらず、そのことをはっきりと認識することなく、固定化された虚構「自己イメージ」を持ってしまうということだ。
3.虚構のくびき
私たちは、「実体として存在しない=虚構」である自己イメージを、外部からの影響で知らず知らずのうちに身に着け、またそれを知らず知らずのうちに強化してきたといえる。自己イメージが虚構であることそれ自体は、仏教の「空」的な考え方に基づけば至極当たり前のことであり、特におかしなことはない。
むしろ、この虚構性をしっかりと認識しているかどうか、が重要になってくると思われる。虚構なのにもかかわらず、実体が存在するかのように勘違いしていると思わぬ落とし穴が待ち受けているのではないだろうか。この勘違いが、「私はこういう人間だから~」という言葉に表れているように思う。
この言葉によっても虚構の自己イメージがさらに強化されている。言霊と古くから言われるものがあるが、実際人間は自分の発した言葉に無意識に縛られる。ずっと口にしていると、あたかもそれが事実であるかのように思い始めるのだ。これは洗脳手法にも応用されている。「私は○○だ。」とずっと言い続けていると、言葉に合わせて「私」が変わっていくのだ。正確に言えば、「私の自己イメージ」という虚構が言葉に合わせてチューニングされていくのだ。
これがうまく機能しているうちはよいだろう。しかし、ともすると自分のくびきになってしまっていないだろうか。「私には無理だ」、「私はこういうことができるタイプの人間じゃない。」といった後ろ向きなメッセージも強化されてしまっていないだろうか。人間は必ず失敗する。そして長い年月をかけた進化の過程で、人間は失敗を成功より重要視するという生存戦略をとってきた。もし、「自己イメージの虚構性」に無自覚なら、知らず知らずのうちに構成された「自己イメージ」が、過去の延長線上に自らを規定し続けることを無自覚に肯定してしまっているということになる。そして、その過去に失敗があったとしたら、その失敗によってネガティブに方向づけられてしまった「自己イメージ」を維持し、強化し、それに沿った行動をとっていくことになるだろう。
これが私が、くびきとよんだものだ。冷静に考えて、過ぎ去った過去は二度と戻っては来ない。過去は変えられない。一方で、「今」私が何をするかは自由であり、それによって未来の方向性を決定づけることはできるだろう。つまり、過去の延長線上に生きる必然性はどこにもないのだ。もし、過去が100%の幸せに満ちているなら過去の延長線上に生きるのもよいだろう。しかし、ネガティブな虚構を作り上げているなら、全く新しい自己イメージのもとで、未来を生み出していく方がよほど建設的ではないだろうか。
4.現在を自由に生き、未来を作るには。
自己イメージの虚構性を認識せず、無自覚に過去に縛られた日常を生きる。これは多くの悩みをもたらしている。「自分はこういう存在だ。」「こういうふるまいをするべきなのだ。」立派な人ほどこういう風に思い込みがちだ。これは必ずしも悪いことではない。それによって、人格者と呼ばれる素晴らしい人物として生きている人も多くいるだろう。
大切なことは、その虚構性を認識して、いつでもそこから離脱できるということを心の底から理解していることだろう。そうしないと、無自覚のうちにネガティブな感情=自己否定に容易に転化していくことが考えられるからだ。そうでなくても、自分で自分の行動を縛った結果(本人はそれが虚構に縛られていることに無自覚でも)、多くのチャンスを逃してしまうことも想像できる。
では、どのように生きればいいのだろうか。もちろんこれには単純な答えは存在しない。一つの考え方は、自己イメージが虚構であるという前提に立って、自分がどんな自己イメージであるのが心の底から嬉しいと感じられるのか」と、新規に自問自答してみることだ。まずは、自分の感情が揺さぶられたとき、何かをしなければならないと感じたときに、「なぜ自分はそう感じるのだろう。」と一つメタな視点に立って自問自答してみる。そうすることで、虚構の自己イメージが作られた原因を知ることができる。そして、それを前提に、全く新しい自分になれるなら、どんな自己イメージを持ちたいか、楽しく妄想するのだ。そのイメージが決まったら、ただ、それを強化してみればよい。
これは実際にやってみると、思ったよりも簡単なことだ。しかもこれのすごいところは、自己イメージを変えることで、自分を取り巻く「他のすべての存在」との関係性を変えることができるのだ。これは、「空」の論理を思い出せば明らかだ。このことはつまり、虚構を少し書き換えてやるだけで全く新しい宇宙を生きられるということだ。
多くの悩みは、現状に不満があるという思いと、現状を変えたくない(変えられない)という思いとの解決できない自己矛盾によって発生する。子供は現状は変えられると思っている。不満があれば親を頼って現状を変えられる。ある時期から自分の限界を自分で決めたり、自分のやりたいことを自分で決めたりする。それが本当の本当に自分自身の選択ならよいが、ともすると周囲によって規定された虚構の内側にとらわれている。これが、現状を変えたくない(変えられない)という思いとして心の澱となって固着するのだ。
虚構は自分で操ってこそ楽しめる。22歳、今こそ自分の虚構を新構築して新たな生き方を始めるときかもしれない、と自分自身についても思いながら筆をおく。