脳機能と関数 人工知能の行く末
こんにちは,SGです.速報です.ゴールデンウィーク明けの週に一気に大量の課題が来ることが予想され,厳重な警戒が必要です(泣).
さて今回は,脳機能,関数,人工知能に関してということでつらつら書いていきます.関数というと数学アレルギーの人にとっては,見るだけで寒気がする代物だそうですが(友人談)数学的な話が主眼ではないので,お付き合いください.
脳機能というものは人間の行動をつかさどるものです.脳の働きによって私たちは生きているといっても過言ではありません.意識,無意識を含めたすべての行動は脳の指令によって行われています.逆に言えば,身体からありとあらゆるフィードバックを受けて,それらを統合しているのが脳です.
脳にはいまなお多くの謎が残されています.宇宙空間や深海に多くの謎があるのは有名で,ともすれば人類のフロンティアといわれます.しかしもっと身近な私たちの脳も小宇宙と呼ばれており,大きいなるフロンティアといえるでしょう.
さてその脳ですが,情報伝達はもちろん電気信号によって行われます.脳といっても物質すなわち原子の集まりでできているわけでその点ではほかのどんなものとも変わりはありません.
ここで生まれてくるのが人工知能という考え方です.脳が物質からできており,科学法則にのっとって働くのであれば,機械でも同じことができるはずだ,ということです.
人工知能というと様々なものが思い浮かべられることと思います.ボードゲームで人間をはるかに上回ったとか,シンギュラリティで人間を完全にうわまわるのではないかといった話から,iPhoneに内蔵されているSiriなど身近なものまで.
このように既に現代社会に浸透してきた人工知能ですが,一体いつからこのような発展を遂げてきたのでしょうか.多くの人がこれらは最近になって発展してきたと思いがちですが,実はそんなこともないのです.
実際,1980年代にはアメリカでカーネギーメロン大学などを中心に人工知能が研究されていました.アメリカ政府が国家プロジェクトとして大量の資金をつぎ込んだこともあり,人工知能の基本的な部分についてはおおむね研究が進んでいたのです.その中には例えば今話題のディープラーニングといった考え方も含まれています.
ではなぜ,最近になってここまで人工知能が人口に膾炙するようになったのでしょうか.それは,ハードウェアの進化によるものです.当時の2億倍以上の性能にまで向上しているといわれるハードウェアの進化によって複雑な計算ができるようになったことが今日の人工知能ブームにつながっているということです.人工知能のプログラムやアイデア自体が根本的に特別新しくなったわけではないことがポイントです.
さてこれを踏まえたうえで現在の人工知能について考えてみます.よく話題になるのでご理解いただけると思いますが,ほとんどのものがディープラーニングを謳うものです.ではディープラーニングとは何かというと,大量のデータを与えて覚えさせて,パターン認識できるようにしている技術です.ニューラルネットワークという脳の神経回路の超簡略版のようなものを使っています.
この技術を用いると,囲碁や将棋のボードゲームが強い人工知能や病気の発見に強いものなどの人工知能を開発することができます.パターン認識能力も向上し,人間をはるかに上回っています.プログラムしてやれば,ルールを知らないゲームでもトライアンドエラーで学習していくこともできるようになっています.掃除機のルンバは,各部屋の構造を学習して効率的に掃除をするように学習します.
ですがここでは,その有用性が限定的であるということ.そしてそれゆえに,こういったものが果たして人工知能といえないのではないかということを問題にしたいのです.
人工知能が本当に人間の脳と同じ知能を持つというのであれば,ディープラーニングを用いた現在のものはとても人工知能といえないという考えがあります.もちろん人工知能の定義自体を現在普及しているものの水準にあてはめるのであれば理論上は人工知能でしょう.しかしそれは単なる機械と何が違うのでしょうか.
具体的にはこういう話があります.洞窟の中にある宝物に爆弾がついているので,宝物を回収するようにロボット(人工知能搭載)に指示を出します.すると,ロボットは爆弾ごと宝物を運び出してきてしまいドカンとなってしまいました.つぎに爆弾を置いて宝物を回収するように指示をしたら,爆弾を無造作に振り落として爆発させてしまいました.最後に絶対安全に回収しろと指示を出したら,すべての危険を計算し始め動き始めすらしませんでした,というような話です.
何が言いたいかといえば,人間が逐一指示を与えていかない限り,人間のように行動できるようになるのは難しいというシンプルな事実です.これはフレーム問題と呼ばれているものの例でもあります.フレーム問題とは,1969年に発表された考えで,有限の処理能力しかもたない人工知能が現実に起こりうるすべての問題に対処するのは不可能であると主張します.
人間は適度にファジーな行動ができるのに,人工知能はすべてのことを計算してしまうためにそうできないというのが根幹です.
先ほど述べたようにこれは今から50年前にはわかっていた問題です.しかし現在に至るまで解決には至っていません.むしろ人間はこの問題にかかわることを避けて,「人工知能」を作ってきました.その結果,ある目的にあったプログラムを作ることには成功しました.将棋の強い人工知能やクイズが強い人工知能,特にパターン認識で判断する技術に関しては,すでに述べたように人間をはるかに上回る能力を持ちます.
ただその前提条件を与えるのは人間自身である,という状況は変化していないのです.将棋を学習するように作られた人工知能は,クイズを解きませんということです.人間と違って一つの機能に特化してしまう,このような状況では人工知能が人間のように多岐にわたる日々の生活を送ることなど全く不可能といっても過言ではないでしょう.
ところで知能というのは,厳密な定義は定まっていませんが,様々な知的活動を含む心の特性のことであってそこには目的的行動,主体的な行動が要請されるという見方は一般に否定されないと思います.
ここに照らしてみれば,現在の人工知能は知能とは言えない,あまりに縛られた存在で,その点で機械という枠を脱せていないと思うのです.
さてここまでで,人工知能(と呼ばれるもの)の発展は理論的背景ではなくハードの進化によるもので,その有用性の限定性の問題は残ったままであるということを述べました.
では人工知能は脳となりえないのか,ということが問題になってきますがこれについてはいまだにわかりません.今現在のアプローチではディープラーニング的なものの進化が起こるだけで,知能にならないという議論もありますし,私自身その議論に正答性があると思います.
ただ現在のアプローチが限定された範囲内で成果を上げていることで,それ以外のプロセスや知能の定義に沿った人工知能といった,人工知能の本質にかかわる議論があまりされていないという問題点があるのは間違いないでしょう.
その理由を述べるために,最後に脳について再度考えてみたいと思います.脳は人工知能の能力に限定的な領域ではもはやかないません.それどころか,記憶も消えたり書き換わったりすることが良く起こりますし,ただしくプログラムされていればおこさないようなケアレスミスをします.それでも,人工知能がフレーム問題によって行動不能な物事をそれなりに適切にこなすことができます.
ここから推論できることは,問題はハードの能力にはないということです.ハードの計算能力はとっくに人間を超えているのです.フレーム問題の発生原因は,計算力不足にはないといえます.むしろ,脳のファジー性を生み出している関数をみつけだすことが大切なのではないかと考えられます.関数というのは,なにかを入れると一定の法則に従って何かを出す箱のようなものです.外界の刺激に対して,反応を返す行動は関数によるものといえます.
脳も人工知能も科学的に機能するわけですから本質的には計算となるわけで,関数という考えは妥当です.言語的に説明すればその関数というのは人によっても異なり,それはたびたびnoteで取り上げている「世界」の問題になってきますが,価値観でありスコトーマです.それが作り上げている関数が我々の行動を決めています.そしてそれはとても効率の良い関数です.肉体維持と脳の思考はすべてエネルギーを必要としますが,食事からしかエネルギーを得ていません.電気を大量に食らう人工知能よりも的確に行動できるというのはまさに奇跡的です.
この関数を見出せばよい,というのは,言うは易く行うは難し.これをどうやって見つけ出すのかという方法は闇の中です.効率よく,的確に行動を判断する.その適度なファジー性を持つが故,人工知能に劣る部分もあるが,トータルで見ると圧倒的な能力を持つ.知れば知るほど脳というのはすごい臓器です.冒頭で述べたフロンティアというのも過言ではないと思われます.加えていえば,知能もそうですが,そもそも知能と必然的に関連している意識についても高いハードルです.意識を発生すること自体がとてつもなく困難であり,しかも脳機能として人間が意識を持つ(と感じている)理由自体まだ解明されていないのです.(この話は長くなるので割愛します)
現時点で言えるとすれば,現在のままで人工知能を発展させても知能にならないことを仮定したうえで,脳の研究と人工知能の研究はより連携する必要があるということです.その二つがよりインタラクティブな関係を維持し,かつ人工知能についてその哲学的にも深い理論的側面から問い直して,まったく新たなアプローチを複数見出していくことが求められると思います.
さていかがでしたでしょうか.今回の話も,人工知能関連の話をいろいろと読んできた私の脳が構成したものであり,オリジナルではない部分があるということはご了承いただきたいと思います.
人間の脳,人工知能について考えると,必然的に哲学の方に思考が向かわなければならないものだと感じていることがあって今回の内容を書きました.ただの処理技術の発展で満足することができない本質が見落とされているという危機感があります.人工知能というのがどういったものか,どういったものであるべきか考えてみることでさらに深い思索ができるのではないかとも思います.
お読みくださりありがとうございました.それではまた次回の記事でお会いしましょう.