ノストラダムスの大予言をめぐって
#幼少〜小学生
皆さんは覚えているだろうか。
前世紀末の重大事件。
そう、ノストラダムスの大予言だ。
ぼくはまだ小学生だったが、
今でもその年のことは、かなり鮮明に覚えている。
テレビではノストラダムスの大予言の特集を毎週のようにやっていた。
その年までのぼくは、父の影響かオカルト・スピリチュアル的なものを普通に信じていた。
特にノストラダムスの大予言には執心した。
なにより、世界が終わってしまうという。雑な終末感がフィクション的でよかった。
当時のぼくは本気で信じてたがゆえに、こう思った
「どうせ終わる世界なのだから、楽しまなければ損である。」
学校の勉強など、やらなければいけないことは
全てノストラダムスのせいにしてやらないことにした。
確か予言では1999年7月頃に世界が終わる予定だった。
ぼくは夏休みがないことが予言されていたも同然だったので、
それはもう絶望し、一学期は遊びまくった。
しかしながら夏休みは普通にやってきた。
ぼくは絶望の淵から救われた気分になり
夏休みが有ることに心から感謝し、それはもう遊びまくった。
しかし、夏休みの中でやっていたテレビの特番で、
ノストラダムスの大予言は実は年末だとか、実は数年後だとか、いろいろな諸説が出始めたのである。
マヤ暦とかふざけんなとか思った。
ぼくの中ではもうノストラダムスの大予言は終わっていたが、世間はまだ騒ぎ立てている様子だった。
今考えると、ぼくはこのタイミングでオカルトを信じなくなったのだと思う。
というのも、あれだけ人騒がせなことを言っておいて、
外れたらまた別の説を挙げてくるとは、いい根性してやがると思ったのだ。
そんな感じで、当初のぼくはこの風潮に怒りを覚えていた。
と同時に妙案を思いついた。
「信じてるふりすれば、遊んでてもいいんじゃね?」
ということで、二学期も遊びまくった。
当然ながら冬休みも遊びまくった。
もう絶望は消え失せ、なんならワクワクしていた。
仮に世界が終わってもぼくはハッピーだった。
年末はビートたけしのオカルト番組を見た。(実は今でも毎年結構楽しみにはしている)
ぼくは今までは恐怖に怯える、か弱い視聴者だったが、
その年からは、ずっとメタな視点から見ていた。
今考えると、これが成長と言うやつだ。
当時のぼくは信じているふりをしていたわけだが、
「最悪の場合、明日滅びる可能性がある。」
ぐらいには思っていたし、今でもいつでも思っている。
たとえばその日にぼく個人に不慮の事故があれば、
それはぼくにとっては予言どおりであるためである。
つまり
「ありとあらゆる最悪の可能性を考えると、どんな事でも全否定は出来ない」
ということを学んだ。
そして、さらにぼくはもう一つ学んだ。それは
「いつ世界が終わってもいいように、今を楽しんで生きるのはカナリ楽しい。」
ということである。
ノストラダムスの大予言のお陰でぼくはものすごくポジティブな人間になったのである。
これは今でもぼくの性格の核になっている気がする。
さて、ひとしきり自分の話をしたわけだが、
ここで父がどうだったかを思い出してみる。
思い返せば、父は、全然信じていなかった。
むしろ当時の父は2000年問題に執心していた気がする。
今考えるとわりと現実的である。
謎だ。父の好みのオカルトは未だに不明だ。
というか、なんなら
ノストラダムスの大予言を信じているぼくを見てはバカにしていた。
当時も腹が立ったが、
今思っても別の意味で腹立たしい。
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