西洋美術史覚えて楽しく美術鑑賞しようよ④ エーゲ美術
美術館に行ったはいいけどよく分からないまま「見た気分」になってしまっていた筆者が、「美術史を学ぶと、美術鑑賞が格段に楽しくなるのでは!?」と気付き、勉強がてらnoteにまとめていくシリーズの第4回。
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※知識ゼロからの素人が、限られた参考文献をもとに作成する記事です。個人の推測も含まれますのでその前提でお読みください。明らかな誤りがあった場合はご指摘頂けますと幸いです。
さあ、今回はエーゲ美術を見ていこうと思うが、エーゲ美術というのは3つの時代・場所で生まれた美術を総称して言われているようだ。3つの場所というのは、
・キクラデス諸島 = キクラデス美術(初期青銅器時代)
・クレタ島 = クレタ美術(中期青銅器時代)
・ペロポネソス半島 = ミュケナイ美術(後期青銅器時代)
いやなんで最後だけ「ペロポネソス美術」じゃないのよ。。って言いたくなるが、ミュケナイ(ミケーネ)はペロポネソス半島にある都市の名前。
そしてこの3つの島は、今も現存している場所という!なんて歴史の深さ。行ってみたいなあ。
(画像:ROOT BOX様より拝借しました)
それでは、この3つの美術(文明)をそれぞれ紐解いていこう。
キクラデス美術(初期青銅器時代)
初期青銅器時代は紀元前3000年頃から2000年頃にあたるので、メソポタミアはシュメールで世界最古ともいわれる都市文明が興った頃(①を参照)、そしてエジプトは最強の古王国時代でピラミッドばんばん建ててたとき(②を参照)だ。
※上記年表の「ギリシア」列にはキクラデス文明の記載がないけど、時代感の把握のために一応載せておく
メソポタミアやエジプトと同じように、ここギリシャのキクラデス諸島でも中規模集落が誕生、つまり人々の社会的な営みが始まった。そして大量に作られたのがこの石偶だった。
特徴は、極端に抽象化されているということ。同時代のメソポタミアの、目をギョロリとひん剥いてる礼拝者像(①を参照)とは全く様相が違っていて、地域で異なる美意識が芽生えていったことが感じられるのが面白い。用途は副葬品や宗教儀式の祭具と推定されていて、断片も組めると1000体以上発見されているのだとか。
ちなみにこの石偶の原材料は大理石。この地域は資源には大変恵まれていたようだ(大理石だけじゃなく銀、銅、鉛なども)。みなさん、歴史的名作の彫像を頭に思い浮かべてみると、やっぱり大理石ってイメージないですか?ミロのヴィーナスとか。「人体彫像といえば大理石」っていうイメージ土台が作られたのは、実はこのキクラデス美術からだったんだ!
クレタ美術(中期青銅器時代)
中期青銅器時代、紀元前2000年頃になるとキクラデス諸島の南に位置するクレタ島では、キクラデス文明を吸収するような形で新たな文明が栄えていく。(クレタ文明は、ギリシア神話に登場するクレタ島の王の名前に因み、ミノア文明/ミノス文明と呼ばれることもある)
クノッソスをはじめとする各都市に造営された宮殿はその遺跡からもとても立派だったことがうかがえる。
(クノッソス宮殿)
宮殿は、長方形の中庭を中心に、小部屋が多数配置され、政治、祭祀、貯蔵、居住そのほかの機能別に使い分けられていた。外壁や防御施設がほとんど見られない点は、同時代のオリエントの宮殿建築と非常に異なり、つぎのミュケナイ文化の城砦風の宮殿建築ともまったく異なっている。
(北澤洋子監修『西洋美術史』より)
外壁や防御施設がほとんどないっていうのは、やっぱり離れ小島っていう地形的な問題が関係しているのかなと想像した。余談だけど、日本の昔の建築なんて部屋の仕切りが襖しかないっていう、欧米ではあり得ないぐらい無防備だよね。それもやっぱり日本が島国で、違う民族の侵入が起こりづらいという地理的な要素が大きく関係していると思う。つまり平和だったってことですね、クレタ島も。
クノッソス宮殿にまつわる話をもう少し。ギリシャ神話の、ミノタウロスの迷宮のお話をご存知だろうか。ミノタウロスが何者か知らない方はまた別で調べて頂ければと思うのだが、端的にいうとクレタ島のミノス王の妃から産まれた、頭が牛で体が人間の怪物だ(闇深い)。
で、このミノタウロスが成長するにつれてすこぶる凶暴になるもんだから、ミノス王は迷宮(ラビュリントス)を建造し、そこに彼を閉じ込めたのだ。その迷宮が、このクノッソス宮殿がモデルなのではないか?と言われている。なぜかというと、クノッソス宮殿の中庭の周りに配置される大小多数の小室が、一見不規則に並んでいて、まさしく迷宮のようだから。
真偽のほどは分からないが、人々の想像をかき立てる場所であることは間違いない。
また、クレタ島では土器・陶器の制作も盛んに行われていた。
中期の旧宮殿時代の「カマレス陶器」は、ファイストス宮殿近くのカマレス洞窟から最初に出土したのでこの名で呼ばれるが、独創的で自由奔放な装飾文様はほかに類例を見ない。卵の殻のように薄手の「卵殻陶器」と呼ばれる、非常に高度の製陶技術を示す作例が残っている。
(北澤洋子監修『西洋美術史』より)
(カマレス陶器)
なんだか思うがままに施した感じの文様が気持ち良い。卵の殻ほど薄いというのは驚き!
その他、宮殿の壁画などを見ても、クレタ美術は「軽妙・自由・明るい・開放的」といった特徴がキーワードになりそうだ。
ミュケナイ美術(後期青銅器時代)
後期青銅器時代、紀元前1600年頃にはギリシャ本土の南部にミュケナイ(ミケーネ)、ティリンス、ピュロスなどの都市が建設された。当時のこの地域の美術を総称してミュケナイ美術という。
ミュケナイ王城は、開放的なクノッソス宮殿とはうって変わって、堅牢な石組の城壁をめぐらせた様式となっている。やはり、こちらはギリシャ本土で陸続きだからね。いつ異民族に襲来されるか分かったもんじゃないという危機感が感じられる。
こちらが王宮の正門である「獅子門」。
門の上には、高さ3mを越える二頭の獅子(ライオン)が浮き彫りで装飾されており、王の威厳を感じさせるものとなっている。
ギリシャで歴史上最初の、偉大な吟遊詩人として語り継がれているホメロスという人物がいる。(今となっては実在したのかどうかすら、論争になっているようだが・・・)そのホメロスが「黄金に富めるミュケナイ」と詠っていたとされるように、ミュケナイの遺構からは多数の貴金属製品が発見されている。代表的な物としてはこちら。
この仮面は、神話上のミュケナイ王の名をとってアガメムノンのマスクと呼ばれており、死者の顔を覆う目的で作られていたそうだ。このあたり、先に触れたエジプトの死生観(来世信仰)の影響が感じられる。
その他にはクレタ風の工芸品も多数発掘されているほか、副葬品ではアフリカやバルト海沿岸の品々も見つかっているそうで、他の地域との交流が盛んにあったことが分かっている。
ミュケナイ美術は、クレタ美術に比べると戦闘・狩りといった尚武的な主題が多く、また「抽象化・図式化・左右対称」といったキーワードで特徴づけられる。
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紀元前1200年頃、突如現れた「海の民」と呼ばれる謎の民族の襲来によってギリシャ本土の諸宮殿は崩壊し、ミュケナイ文化は前1100年頃に終焉を迎えてしまう。その後200年ほどは「暗黒時代」と呼ばれる低迷期が続くが、長い月日を経て再建し、再び文化的な隆盛を迎えることになる。ということで、次回はいよいよギリシャ美術を見ていきましょう!
*本シリーズで参考にさせて頂いている文献たち
・中村るい、黒岩三恵他『西洋美術史』(武蔵野美術大学出版局)
・堀内貞明、永井研治、重政啓治『絵画空間を考える』(武蔵野美術大学出版局)
・池上英洋 、 川口清香、荒井咲紀『いちばん親切な西洋美術史』(新星出版社)
・池上英洋 、 青野尚子『美術でめぐる西洋史年表』(新星出版社)
・池上英洋『西洋美術史入門』(ちくまプリマー新書)
・早坂優子『鑑賞のための西洋美術史入門』(視覚デザイン研究所)
・木村泰司『世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」』(ダイヤモンド社)
・Wikipediaの関連ページ
・世界の歴史まっぷ
・世界史の窓
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