グラフィックレコードから読み解く「しゅたいって?」
はじめに
はじめまして。野月そよかと申します。
トークセッション「しゅたいって?」のグラレコを担当しました。
この文章はトークセッションのまとめではありません。あくまで私が登壇者五名の対話をグラフィックレコードを眺めながら再解釈し、少しだけ感想を加えたものです。ぜひグラフィックレコードをなぞりながら、皆さまとの解釈のズレや、セッションの聞こえ方の違いを楽しんでいただければと思います。特に登壇者のみなさま、もし私の認識が著しく誤っていた場合は、どうかご指摘ください。
第1部を読み解く
第1部では、余田さんをモデレーターに、探究学習における主体性について言及した姜さん、「要請された主体性」からの逃げ場としての本屋について言及した堀田さんのセッションが行われました。
姜さんによると、探究学習において主体的であるかどうかは、学習現場を眺める他者はもちろん、学習者にとっても「まさに取り組んでいるそのとき」には判断し難いものなのだそうです。学習者にとっても主体的であるか判断し難いのは、過去の自分や、探究学習から「要請された主体性」が思考に入り込んでいるのが一因だと感じました。
これに対して「要請された主体性」からの逃げ場に言及したのが堀田さんでした。堀田さんの運営する本屋さんがどのような場であるかということは、訪れるひとの判断にゆだねられるのだそうです。これは特定の主体性が要請される場とは対照的に、本屋さんが何も要請されない場所になり得ているということなのでしょう。
姜さんと堀田さんは、他者の主体性を眺めるという見方を共有していたようにように思います。最終的には、個人が何かを行うまさにその最中というのは、自他からの要請により構成された複雑な自己の在り方にもがいていること、要請からの解放を促すシェルターとしての「まち」が存在しうることが、浮かび上がってきました。「要請された主体性」を否定するのではなく、多様なあり方を包み込む教育が、その周辺にまで裾野を広げたところに存在する構図が見えてきました。
これに対して、余田さんは探究学習にエンパワーメントされる当事者としての立場でお話されていました。まとめの中で、逃げ場として扱われる「まち」における主体性は何か問われていました。姜さんと堀田さんは、本屋があらゆる要請から解放を促している例から、まちがシェルターとなる可能性を描き出しています。しかし、私は余田さんが「まち」に特定の主体性を要請されることもあるという含みを持たせて、この問いを発されたのかと予想します。そうなると、「まち」の中にも主体性が要請されない場面、主体性が要請される場面があることになります。この点で、堀田さんの本屋が、なぜ何も要請されない場所になり得ているのかは気になるところです。逃げ場として成立しうる何も要請されない場は、しかけも重要そうですが、本人が何も要請されていないと認識する、またはそもそも要請なんて意識に上らない状態の中で成立しうるのかも、と思ったりします。
第2部を読み解く
続いては、同じく余田さんをモデレーターに、対話における主体性について言及した青木さんと、精神のシェルターとしての建築と主体の関係性に言及した千丸さんによるセッションでした。
青木さんは、従来対話が話し手から聞き手へ、という一方的な構図と捉えられてきたのに対し、話し手と聞き手が相互に作用する中で成立するものと捉えました。対話の中で、話し手が想定していなかった言葉が聞き手に引き出されてしまう、という場面がその裏付けとしてとりあげられました。
千丸さんは、建築が昔から変わらず、身体と精神双方のシェルターとして機能してきたこと、その一方で主体性の捉え方は変化してきたと述べられていました。従来個別的なものとして捉えられてきた主体性が、現代においては他者との相互関係が前提となる間主観的なものと見られているならば、シェルターの在り方を問い直さなくてはならないと主張されていたのだと思います。
これに対し、青木さんは、千丸さんのnoteでも登場したヴァージニアウルフが、ひとりの部屋で執筆していた際に、窓の外に見えた他者からの影響を受けて創作活動を進めたというシーンを取り上げます。ひとりの部屋にいながらも、その自己性が萌芽するのに他者との相互性が生じている点が、現代における間主観的な主体性と重なると指摘されていました。さらに、シェルターの在り方を問い直すにあたり、従来の主体性とシェルターをどう扱うかということにも言及がありました。従来のシェルターは壊しつつ作り直すのであって、過去をそのまま棄却すると捉えるのではないのだそうです。(すみませんこの辺りよく理解できておらず…今度お会いできたらぜひ教えてください。)
これらの対話を踏まえ、余田さんは主体性の相互循環という言葉を用いて、コミュニティからアソシエーションへの移行、アソシエーションにおける自己と他者の相互性による関係性の拡張からコミュニティが創造される可能性、さらにアソシエーションへの移行…という循環の存在について考察されていました。
第3部を読み解く
第3部は、来場者の方からのご質問を拾いながら進んでいきました。
前半は、「深く傷ついた語り手との対話においては、聞き手は主体的で在れるか?」という問いかけから。
青木さんより、相互性が生じて主体になれることも、聞き手も傷ついて主体になれないこともあるが、それでも対話を試みるのは、「自己と他者の間にはまず関係性があるからだ」という回答がありました。これを汲んで、千丸さんからは、対話する相手を選ぶという過程を経るということは、まずはじめに関係性があるのだという指摘がありました。そのうえで、余田さんはすべてを関係性でくくるのは違和感があると発言されています。
この余田さんの違和感は、三名それぞれが指す「関係性」がそれぞれ少しずつニュアンスが異なるがゆえに生じたのではないかと思います。
青木さんは、第二部でもあったように、相互作用の中にしか主体性は現れない、他者との相互作用の中ではじめて自己が規定されるという立場を取っています。余田さんは、今現在の認知できる関係性から逃れることに言及しましたが、この逃れたいという思いすら、関係性により生じる主体性と捉えます。
ここからは、関係性から逃れることについて盛り上がりました。余田さんの「逃れたい」という意識は、他者との相互作用が生じている最中に余田さんが関係性の中で現れた自己について考えているということに依るのだと思います。そうであるならば、余田さんのいう関係性から「逃れたい」というのは、現在の相互作用の中で現れた主体的な自己から逃れたいという意味で捉えられそうです。逃れる先、シェルターについては色々な意見がでてきました。姜さんは、他者との相互性が生じつつもラフに主体を切り替えられるtwitter、堀田さんは、人ではなく本そのものや、物語の存在をあげていました。シェルターとなりうる相互性が生じる場には、何か条件があるのでしょうか。気になるところです。シェルターとしての相互性へ逃れるというのは、また元の相互性に戻るというのが前提となっていそうですが、戻らない場合、つまりシェルターに避難するのではなく異なる相互性が生じるところに移行する場合の主体の所在ついても気になります。
後半は、「主観と主体、客観と客体の関係性は何か?」という問いかけからはじまりました。
皆さん、自己の主体性を認知し守るために、要請された主体性への応答や、他者に認知されやすいよう演技してしまう自己が居ることを認めていました。加えて、俯瞰する自己の存在を認識しているのだそうです。演じる自己も俯瞰する自己も、どちらも関係性の中で現れる主体なのでしょうか。特に後者の主体の所在は気になります。もしかすると人によっては、演じる自己と異なる関係性の中で生じるかもしれません。
おわりに
今回のセッションでは、登壇者がそれぞれ「しゅたい」を定義し、様々な角度から議論が展開されました。それゆえに、端的にセッションで何を話されたか説明するのは困難を極めました。しかし、この複雑な「しゅたい」を、複雑なまま描けることは、五名が自己性を尊重し合う、相互に「しゅたい」的な対話ができる関係性にあることを示しているように思います。セッションという形をとっていただけたおかげで、私も含め聴衆は、一時的にその自己性が尊重される対話に加われた感覚がありました。
グラフィックレコーダーは、「つまりこういうことですね」と美しく結論を導き出したり、素晴らしい考察を述べたりすることはできません。できるのは、グラフィックを用いて画面に議論を映し出し、参加者のリフレクションをサポートをすることだけです。登壇者の皆さまが今回のセッションをふりかえり何か議論をさらに進めるとき、今回のグラフィックレコ―ドが役立ちますように。
主催者の余田さんをはじめ、登壇者の皆さま、ありがとうございました。