わたしの兄と筆名と短歌
筆名を考えたい。
と、今年の春に思った。
短歌を去年の秋頃から作り始めて、初めて投稿を試みたのは、中日歌壇だった。沢山ハガキを送った。
その数ヵ月後、小島ゆかり先生に2回、島田修三先生に1回、選んで頂けた。
嬉しいというより、実感が無かったのが正直なところだった。
今見ると、その頃書き溜めていた短歌は、とてもじゃないけど表に出せないものばかり( 注:今が良いわけではない♪ )そんな中でよくぞ選んで貰えたものだと、漸くしてからじんわり嬉しさが込み上げてきた。
ビギナーズラックだった。
実際、新聞に実名が載ると、緊張するし、もし誰か知ってる人が「あ!あの人、こんなこと言っちゃってる」となると、こっ恥ずかしい。
でも、誰からも何も言われなかった。
ご近所の人の顔を思い浮かべても、新聞歌壇を見てる人はまず居そうにない。
そんな心配をよそに、案の定それから延々中日歌壇で選ばれることはなく、段々やる気も削がれて行き、投稿用に買ったハガキも輪ゴムで十字にしっかり止めて、引き出しにしまっていた。
今は、NHK文芸選評、NHK短歌、ラジオ、雑誌と投稿先は沢山あることがわかってきた。
そこでnoteでフォローさせて頂いてる方の短歌が、選者の方に読まれることがある。また、投稿された短歌を本の中で拝見することもある。
何か知り合いの人( 勝手にごめんなさい! )が出てきたようで嬉しくなってしまう。
そして半年後、春めいてきていよいよ桜が咲きそうになると、ちょっと私の投稿のやる気も再び芽生えてきて、「そうだ、実名でなく筆名だ」と次の投稿は、ぜひ筆名で、と思った。筆名が決まるまで取り敢えず休もう。 ん???
結局また短歌ノートに書き出すだけの日々が続いた。というかこれ出そう!という短歌も中々出来ない。
そして筆名の方も、なかなか簡単に浮かんでくるものではない。
そこで思い付いたのが私の兄だった。
コピーライターなのだ。
あの人を利用しない手はない。
そしてそんなお願いをライン1本で済ますという私に兄は、「ええで、おもろいやん」と快諾してくれた。
でも3月下旬に発注?したのに、関係ないラインはよく来るのに、筆名は全然届かない。!もしや4月下旬の私の誕生日にくれるつもりでは??
でも誕生日は「おめでとう!」としか書いていなかった。
仕事も忙しいのだろうと遠慮していたけど、さすがに連休に入ってしまったので、催促した。
そしたら、「ごめん、ごめん、1週間待ってくれるか?」と言われる。
待たされて、ん~言いたくないけど意を決して……「まだですかぁ?」と尋ねると、すぐ名前を呼ばれる病院や、すぐ料理の来るレストランを思い出した。
そして約束通り50個もの筆名を送ってきてくれた。それぞれ持つ意味も書かれていた。出所が古事記や日本書紀だったり。奈良の川の名前だったり。
兄は奈良が大好きなので、因んだものが多かったけど、私は「楽しい」という言葉がついている筆名が気に入った。短歌を楽しむで、楽歌、平仮名で「らか」という。
それから5月に、私は持病を大きく悪化させてしまい、悲嘆に暮れていた。その「楽しい」という意味を持つ筆名を見るたび、泣いてしまった。
その「楽しい」に、しっかりしろと言われているような気がしてならなかった。
でも、5月から辛いながらも、3首ほど中日歌壇に投稿した。
◇ ◇
先週土曜日に、noteに投稿した昔の犬の話の中で、実家の母をちらっと登場させた。
そして、翌日の日曜日、朝刊をいつものように開いてみると、私の短歌が載っていた。
◇ 小島ゆかり先生宛に、筆名を使って、はじめて送った短歌だった。
※ 私の実家は、私が結婚し大阪を離れてから、何年かして引っ越し、取り壊されている。もうそこに住んでもいない私だったけど、家が無くなるのは身を切り取られる様で、ほんとはやめて欲しかった。
門扉、郵便受け、蔓バラ、木々、アプローチ、玄関の引き戸を開け靴を脱ぐ。帰ると25年間の生活すべてがそこにあった。
家は生き物のようだった。
遠方なので引っ越しの手伝いは行っていない。
その時、母も同じようなことを言っていた。
◇
荷ほどきをしながら母が急に言う
なんであの家置いてきたんやろ
2024.6.15 中日歌壇 咲山らか
嬉しいーーー!!!
また改めて地道に頑張ってみよう。
兄に写真に撮って報告すると
短歌に関しては無視で、
「つくづくええ筆名や」とだけ返ってきて悔しかった。