焦点をあてるのは、差別されている人たちではなくしている人たち
まずこの本がどんな本なのかというと、
これまでのダイバーシティ教育が、社会で差別の対象となっている集団や排除されているマインノリティ集団への理解を深めるかたちで進められてきたけれど(例えば、LGBTのひとたちについて知ろう、とか)
そういうアプローチに決定的に欠けているのは、「マジョリティ側のひとたち自身の持つ特権を自覚し向き合うこと」というところから問題提起がはじまる。なので「特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育」という副題にもなっている。
イメージが湧かないひともいるかもしれないので、別の本で補足する。
障害者が大変なのをしり理解しようとする行動も大事だけれど、なぜ障害者がこの社会で生きていくのが大変なのか。自分が健常者として、「健常者が当たり前」の街や会社のルールをつくってしまっていなかったか?に目を向けることが、差別解消のために必要なのに、
24時間テレビのように「障害者」の側に注目し、「努力して壁を乗り越える」のように、社会のなかで障壁を感じている側が変わっていかなければいけないような構造になりがちだ。
わたしが『真のダイバーシティをめざして』のはじめの方で印象的だった文章をシェアする。
もしあなた(わたし)がその問題で困っていないのなら、その差別の加害者、そのことで障壁を感じているひとが困る社会をつくっている側かもしれない、ということを意識していない人が多い。
そして、よく「女性って生理があるから大変だよね」とか言われるけど、共感は求めていない。あなたもその問題の構造の当事者ですよ、って思う(ときもある)。女性の生理が大変なのは、症状としてはもちろんだけど、
それによって数日働けなかったり、(働けないのが問題じゃなかったりしても)有給が消化されてしまったり怠けているのではないかと思われたり、生理痛がひどくても電車で優先席に座りづらかったり、そういうことであって。
その「生理大変だね」と共感をくれるひとも、むしろ生理にまつわる「困りごと」の状況をつくり出しているひとりなのだとしたら?
そのひとが男性で、女性が働きにくいような会社のルールをつくっていないか?パートナーが生理のときにやすめるようにしているか?
そんな風に、すべきことはまず共感ではなく「具体的にどんなことに困っているの?」と聞き、自分の生活を振り返ることかもしれない。
もちろん、わたしもなにかの問題の困りごとをつくる側なのに、共感をしてしまっているかもしれないので気を付けたい。
そんなことに気づかせてくれる文章だった。
(まだ『真のダイバーシティをめざして』は5分の1くらいしか読めていないので、また感想やそれに紐づくことをシェアしていきたいと思う。)