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焦点をあてるのは、差別されている人たちではなくしている人たち

このnoteでは『真のダイバーシティをめざして』という本の感想やまとめとともに、ダイバーシティや権利、特権というものに関しての考えを伝えていく。


まずこの本がどんな本なのかというと、

これまでのダイバーシティ教育が、社会で差別の対象となっている集団や排除されているマインノリティ集団への理解を深めるかたちで進められてきたけれど(例えば、LGBTのひとたちについて知ろう、とか)

そういうアプローチに決定的に欠けているのは、「マジョリティ側のひとたち自身の持つ特権を自覚し向き合うこと」というところから問題提起がはじまる。なので「特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育」という副題にもなっている。

イメージが湧かないひともいるかもしれないので、別の本で補足する。

差別問題が語られるときには、ほぼ例外なく「差別されている人たち」に焦点が当てられることも、理解の対象のズレの問題として重要である。当たり前だが、差別「される」状態が最初にあるわけではない。必ず、差別「する」という行為が先にある。しかし、人権教育などの実践においては、「差別する人たち」になかなか話が及ばない。差別「される」側に焦点を当てた学習から入っていくと、差別されている当事者の中に差別に結びつく要因を見出そうとする思考になりやすい。

〔中略〕「差別」があると知ったとき、まさか自分も当事者としてその差別構造を支えていたなどということには考えも及ばない。〔中略〕全員が差別構造のなかに巻き込まれ当事者となっているということが問えなくなってしまう。

p153-154「学びの本質を解きほぐす」


障害者が大変なのをしり理解しようとする行動も大事だけれど、なぜ障害者がこの社会で生きていくのが大変なのか。自分が健常者として、「健常者が当たり前」の街や会社のルールをつくってしまっていなかったか?に目を向けることが、差別解消のために必要なのに、

24時間テレビのように「障害者」の側に注目し、「努力して壁を乗り越える」のように、社会のなかで障壁を感じている側が変わっていかなければいけないような構造になりがちだ。


わたしが『真のダイバーシティをめざして』のはじめの方で印象的だった文章をシェアする。

「受動的共感」とは、特権を持たない他者に安全な場所から素朴に同情することで、そこでは自分自身の立場や世界観を問い直さなくてもすむ

vii「真のダイバーシティをめざして」

「わたしたちがその生活を想像する『他者』は、共感をもとめてなどいない。公正を求めているのだ。重要なのは自分とかけ離れた他者に共感できる力だけでなく、他者に立ちはだかる壁をつくる風土を生み出している社会的力に、自分自身も関与していることを認めることである。」

vii「真のダイバーシティをめざして」

もしあなた(わたし)がその問題で困っていないのなら、その差別の加害者、そのことで障壁を感じているひとが困る社会をつくっている側かもしれない、ということを意識していない人が多い。

そして、よく「女性って生理があるから大変だよね」とか言われるけど、共感は求めていない。あなたもその問題の構造の当事者ですよ、って思う(ときもある)。女性の生理が大変なのは、症状としてはもちろんだけど、

それによって数日働けなかったり、(働けないのが問題じゃなかったりしても)有給が消化されてしまったり怠けているのではないかと思われたり、生理痛がひどくても電車で優先席に座りづらかったり、そういうことであって。

その「生理大変だね」と共感をくれるひとも、むしろ生理にまつわる「困りごと」の状況をつくり出しているひとりなのだとしたら?

そのひとが男性で、女性が働きにくいような会社のルールをつくっていないか?パートナーが生理のときにやすめるようにしているか?

そんな風に、すべきことはまず共感ではなく「具体的にどんなことに困っているの?」と聞き、自分の生活を振り返ることかもしれない。

もちろん、わたしもなにかの問題の困りごとをつくる側なのに、共感をしてしまっているかもしれないので気を付けたい。

そんなことに気づかせてくれる文章だった。


(まだ『真のダイバーシティをめざして』は5分の1くらいしか読めていないので、また感想やそれに紐づくことをシェアしていきたいと思う。)

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そい|内藤千裕
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