私たちはソ連にいた! ~1970年代の青春~
映画『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』を見て、私は「青春のモスクワ」に思いを馳せた。実は私は縁あって1973年から1983年までソ連の海外向け国際放送(ソ連国家ラジオテレビ委員会=通称モスクワ放送。日本課)で働いていた。つまりこの映画の舞台となっていた2年後の1973年から、作家ドヴラートフが1978年にソ連政府からの追求を逃れるためウイーンに亡命するまでの6年間、作家と私ははからずもレニングラード(タリンやプスコフにもいたという)とモスクワという都市は違えども同じ「ソ連」という国家体制の中で、「同じ空気」を吸っていたことになる。ただし私たちが決定的に違うのは、ドヴラートフはソ連体制に批判的な立場で、命がけで表現の自由とストレートに闘っていたことに対し、私は逆にソ連の体制側の仕事に就いて一人「表現の自由」の無さに悶々として働いていたことだった。当然、私たちが出会うことなどはなかった。しかし同じ時代にソ連という「空間」にいたという、ただその事だけで、私の中で今ドヴラートフにある種の親近感が猛烈に沸いてくるのはなぜなのだろう。
この映画の中には当時のソ連の懐かしいモノやシーンが随所に出てくる。例えば通りの歩道に立つ四角柱のガラス張りの公衆電話ボックスはよく使ったものだった。映画スタジオの吹き替えシーンも忘れられない思い出だ。当時モスフィルムから日本語の声の出演など時々お呼びがかかった。例えば第二次世界大戦当時のソ連と日本の戦闘を描いた映画があった。日本語の台詞は、日本兵が地雷を抱えたままソ連の戦車の下に潜り込み、爆死する直前に叫ぶ一言だった。私は万感の思いを込めて叫んだ。「天皇陛下万歳 ! ! ! 」。1発でOKだった。しかし演技とはいえ私はスタジオを出てから自宅に戻るまで何とも心が重かった。
ドヴラートフの台詞の中で「ブレジネフの夢を見た」という言葉が2回出てくるが、こんなことがあった。私は政治的な放送ばかりしているモスクワ放送のイメージを塗り替えるべく、ソ連の若者たちが聴いているポップス音楽の「ベスト10」番組等を次々に企画して立ち上げた。当時一番人気があったのが、後に「♪ 百万本のバラ」を歌った女性歌手アーラ・プガチョーワだった。しかし、彼女は当初、奇妙な歌を歌っていた。題して「♪ 王様は何でも出来る」。この頃私はよく「ブレジネフの夢を見た」。彼は当時のソ連最高指導者=「王様」だったがソ連市民によって揶揄されていた。すぐにこの歌は「ベスト10」に入った。しかし、人気が出ると放送禁止になった。理由は「上からの指示」という事だった。歌詞は、ルイⅡ世という王様は何でも出来たが、恋愛結婚だけはできなかったというアイロニカルなものだった。しかし、ソ連国民とソ連の指導者たちはこの歌の「本当の意味」を理解していた。それは「ソ連の権力者は何でもやりたい放題」という体制批判の歌だという事を。あの当時、「表現の自由」を求めてソ連の体制と命がけで闘っていたのは、作家のソルジェニーツインやサハロフ博士などほんの数人しかその名を私は知らなかった。しかし当時のソ連にはそこまでいかなくても、自分なりに出来る範囲で、ささやかでも「表現の自由」と闘いながら、ドヴラートフのように外国に亡命もできずに祖国ソ連にとどまり、様々な圧力に屈しながらも、しかししぶとく抵抗していた名も無き、そして名もある人たちもまた確かにいたのだった。
西野 肇(元モスクワ放送 日本人アナウンサー)
モスクワ放送勤務を経て、現在はテレビ番組制作会社ユーコムのテレビプロデューサー。「肋骨レコード」のコレクターでもある。
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