なぜ現代アートは難しいのか
こんにちは、アーティスト・インディペンデントキュレーターとして活動している半田颯哉です。
現代アートは難しい。
と思ったこと、一度はあるのではないでしょうか。
実は、現代アートはとても簡単です。みなさんは既に素敵な感性を持っています。現代アートはみなさんが持つその感性で自由に感じ取ればいいのです。今回はそんな感性によるアートの楽しみ方を解説してきます。
と、説明しているものがあれば、その内容は信用してはいけません。
今回は、なぜ現代アートは難しいのか、そしてどのように楽しんでいけばいいのかを解説していきます。
隠れマルコフ連鎖、エントロピックForward-Backward、品詞タグ付け
さて、これは論文公開サイトarXivの統計学カテゴリーに投稿されたばかりの論文タイトルです。arXivは速報性に重点の置かれているサイトであり、理工学の最新の論文が集まっていますが、この論文は一体どのような内容でしょうか?
(元論文 Elie Azeraf, Emmanuel Monfrini, Emmanuel Vignon, Wojciech Pieczynski (2020). Hidden Markov Chains, Entropic Forward-Backward, and Part-Of-Speech Tagging)
隠れマルコフ連鎖とは過去の状態が隠れているマルコフ連鎖のことで、マルコフ連鎖とは過去の状態が次の出力に影響するモデルのことです。自然言語処理を行うとき、古典的なForward-Backward確率を用いた隠れマルコフ連鎖では接頭辞や接尾辞のような任意の特徴を扱うことができないことが知られており、最大エントロピー・マルコフモデルを用いることが推奨されてきました。この論文ではその問題が隠れマルコフ連鎖モデルではなく復元アルゴリズムの計算方法に起因することを示し、エントロピックForward-Backward確率を用いて隠れマルコフ連鎖ベースの復元を行う新たな手法を提示します。
……論文のアブストラクトを私のなけなしの知識を含めてざっくりとまとめ直してみましたが、これはもともと専門知識がある程度ないとなかなかピンと来ない感じがしますね。
きっと、この論文の内容を理解するためには、統計学や自然言語処理についてのこれまでの研究の積み重ねを把握している必要があるでしょう。
また、過去の積み重ねだけでなく、いま現在のその分野の最先端の研究状況も認識していないと、それがどれだけ先進的なのか、今の研究の流れに逆行していないか、というようなこの論文の意義についての評価もできないことと思います。
これ、アートについても同じことです。
現代アートはアート界の最新の成果
時折、アーテイストに向けられたこんな言葉を聞くことがあります。
「アーティストはもっと俺がわかるような綺麗な絵を描け」
「みんなが理解できないような芸術は自己満足」
しかし、理工学の研究成果に対してこんな言葉を投げかける人はあまり見かけません。
「研究者はもっと俺がわかるような簡単な論文を書け」
「みんなが理解できないような研究は自己満足」
研究者たちは論文を通してその分野の専門家たちに最新の知を共有しています。
同じように、アーティストたちは作品を通してアートの専門家たちにアート界の最新の成果を共有していると言えます。
研究者もアーティストも、これまでの各分野の積み重ねを尊重し、現状を把握し、そしてそれぞれの分野の歴史の教科書に新たな1ページを刻むべくして活動しているわけです。
現代アート界の積み重ねとは
では、ある分野の研究者にとってそれまでの研究成果の積み重ね(先行研究や巨人の肩と言ってもいいかもしれません)にあたるものは、アーティストにとっては何でしょうか。
誤解を恐れずに言うと、それは「美術史」です。
先ほど少し触れた通り、アーティストが目指すのは美術史の最新の1ページに自分の名前と作品を載せることです。
となると、最新の成果である現代アート作品を理解するためには、論文で言う先行研究にあたる美術史を知っていなければなりません。
また、美術史は歴史の1分野。美術史をより深く理解するためには世界史も知っておいて損はありません。更に更に、「現代」アートをもっと理解するためには「現代」を知るための社会学も必要になることだってあります。
「現代以外」のアートも難しい
「いやぁ、そんなに難しいなら現代アートは理解できなくていいや。ルーブルとかルネッサンスとか、ああいう綺麗な昔の絵ならわかるし、ああいう絵こそ本当のアートだ」
なんてことを言っている人も見たことがあります。
では、私はこんな問いを投げかけてみましょう。
「確かに昔のヨーロッパの絵はうまいけど、本当にその絵のこと、わかってますか?」
アーニョロ・ブロンズィーノ《愛の寓意》( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Angelo_Bronzino_-_Venus%2C_Cupid%2C_Folly_and_Time_-_National_Gallery%2C_London.jpg より)
これは、ブロンズィーノという16世紀イタリアの画家が描いた《愛の寓意》という作品です。
画面全体の躍動感、肉体の柔と剛の表現、布のしわなど高い技術が随所に見られ、とても美しい絵画ですね。
……正直に告白すると、実は私はこの絵画、あまり理解できていません。
アレゴリー、日本語では寓意画と呼ばれるジャンルがあります。
これは、寓意、つまり喩えによって戒めのメッセージを伝えるための絵と言えます。
同じように、物語で戒めを表すものに「寓話」というのもあったりします。
(「イソップ物語」や、『注文の多い料理店』などは有名な寓話ですね)
さて、この《愛の寓意》という作品、ところかしこに意味が込められています。
例えば、真ん中にいる女性はヴィーナス。右手にはキューピッドの矢を、左手には禁断の果実、林檎を持っています。
また、右上にいてカーテンを剥ごうとしている老翁は時の化身で、左奥には頭を抱えた老婆が、右の天使の背後には何かを手に持ち誘惑をしているかのような少女がおり、総合するとこれはきっと一時の情欲に溺れてはならないという……お手上げです。これ以上の解釈は他のページや書籍に任せましょう。
(この絵の意味は完全な解読はまだなされていない、とも言われています)
もちろんヨーロッパの昔のアートには寓意画以外もあります。
例えば、キリスト教の教会などがパトロンとなり描かせていた宗教画などです。
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ《洗礼者聖ヨハネの斬首》( https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/42/Michelangelo_Caravaggio_021.jpg より)
こちらはまたダイナミックに劇的に描かれている絵画ですね。16世紀末から17世紀初頭にかけて活躍したカラヴァッジョという画家の作品です。
画題は「洗礼者聖ヨハネが斬首される場面」。
洗礼者聖ヨハネって誰? どうして斬首されているの? ……この問いに答えるには、キリスト教の知識が求められるわけです。
こんなnoteを発見しました。まさにこの方の言う通り、西洋美術はキリスト教やギリシア神話のようなヨーロッパの文脈を理解していないと「わからない」のです。
アートは教養であり、最後の娯楽である
このように、アートを理解していくには、現代であってもなくても、背景知識という「教養」が求められます。「アートは教養」なんてよく言いますよね。
ではなぜ、わざわざ難しい作品を楽しもうとするのでしょうか。
もちろん、「自分には教養がある」アピールな面があることも否めませんが、それだけではありません。
それは、自身の知見を深めていけば行くほど「より深みがあるものを探求していきたくなるから」ではないでしょうか。
世の中には前提知識がなくとも、頭をあまり使わず楽しむことができる娯楽も沢山あります。一方で、前提知識を必要とし、頭を使うことを楽しむ娯楽もあります(例えばアニメを一つとっても、4コマ漫画原作の日常アニメと押井守監督作品じゃ楽しみ方は違うでしょうし、ゲームでもより難しいものに挑戦しようとする”ガチゲーマー”な人もいますよね)。
「暇は文化と哲学を生む」とはよく言ったものですが、暇かどうかは別にして、余裕を持った人が知的営みを楽しむために辿り着く先の一つがアートなわけです。
だからといって余裕ある成功者しかアートを楽しんではいけない訳ではありません。勉強した人しかアートを観てはいけない訳でも、アートを観るのに感性が全く要らない訳ではありません。
私たちが図書館に行って研究成果の解説本を読むことができるように、美術館やギャラリーもまた、アートを知りたいと思う全ての人に開かれています。
もちろん、感性をふんだんに使い、感覚と合う合わないで作品を楽しむこともできます。でも、もしアートの持つ深みに興味が出たなら、展示に行く前にちょっと検索してみたり、会場内の解説を読んでみたりして楽しんでみてください。
アートが誰でもわかるような簡単なものになることはありません。でも、誰もがアートをわかるようになることはできます。
おまけ
正直に言えば、私にとって寓意画やキリスト教絵画というのはわからない部分も多く、現代アートよりも難しく思えています。
もしかしたら、私たちに近い時代のアーティストたちが制作している分、実際に勉強してみると現代アートの方が簡単、なんてこともありえます。
とはいえ、西洋美術作品ってどうやって理解すればいいのだろうか、という方にはこちらの本がお勧めです。
ビジネス啓発書的なタイトルですが、内容がしっかりとした美術作品解説になっており、「なるほど、絵はこうやって読み解いていくのか」と目から鱗が落ちるかもしれません。