演劇の純表現 -石原朋香『見てをりぬ』を観て-

石原朋香の『見てをりぬ』は30分程度の演劇作品である。東京芸術大学取手キャンパスで開催中のWIP展での初演を鑑賞したところ、文章をしたためるべき衝動に駆られたので本稿を走り書きする。
文学の文学的表現にフォーカスしたジャンルを純文学と呼ぶならば、演劇の演劇的表現を活かしたジャンルは純演劇と呼ぶことが出来るだろうか。本作は演劇表現の美しさを持ち、しかしそれでいて難解でない構成を持つ。演劇の持つ諸要素を活用しながら自己批判的なのみでない作品として成立している。
本作は石原の祖父母が実際に詠んだ俳句を軸に、石原本人が演じる女と、丹野武蔵演じる男の掛け合いで展開していく。
まず、この作品を絶賛するために、最初に一つだけ本作の欠陥を指摘する。
作中、主人公である男女が、恐らく女の故郷の海で「こんな田舎から出て来た人が、都会で巡り会う」ことの運命性や偶然性について語る。しかし、それまでの物語中に都会性と田舎性の対比構造への言及はなく、唐突に差し込まれた台詞である感覚が否めない。語り方や構成上、作品のクライマックスとなるシーンだからこそ、安易なそのフレーズに違和感を覚えた。全体の完成度が高く、何も台詞がないシーンにする、という選択肢もあっただろうだけに、そのシーンのみ残念に思えてならない。
だが、その枝葉末節を無視して余りある魅力と完成度が本作にはあり、私はこの作品の鑑賞を是非ともお勧めしたい。

導入について

男女の二人がしりとり遊びに興じるやり取りで幕を開け、ある単語を切っ掛けに女は祖父が詠んでいた「俳句」を思い出す。女は、先に亡くなった祖母を思って祖父が詠んだ句が新聞に載り遠い親戚から香典が届いた話や、祖母もまた祖父に習い俳句を詠んでいた話をする。その姿は作中の女であると同時に、それを演じる現実の石原による回想でもあるように見え、我々と地続きの世界の話であることを意識させる。そして作演石原が再度作中の女に戻るとき、その意識を取っ掛かりに鑑賞者である我々を現実の世界から作中の世界に滑らかに引き込む。
また、女はしりとりに替えて、男に連想ゲームに近い方法での俳句の作り方を教える。このあと、作中での言葉遊びはこの俳句作りのための連想ゲームによってなされるようになる。言葉遊びという共通項で鑑賞者にも親しみのあるしりとりから俳句作りに繋がる展開もまた、鑑賞者の作品への没入に一役買っている。

いくつかの対比構造

「導入について」で述べた中に、現実と作中世界の間を繋ぐための対比構造がいくつか現れているが(現実の石原と作中の女、しりとりと俳句)、本作は更に対比構造をうまく用いている。

・祖父母の思い出と現代の男女

祖父母の遺した俳句を軸に展開される本作において、その句と女から語られる祖父母の思い出話から鑑賞者は祖父母の人物像や人生の一部を垣間見る。
プロポーズ、日常、相思といった要素が祖父母同士の生活や、人生での関係の変化を想像させる。そして、現代の男女二人がその変化をなぞり、あるいは新たな展開を生んでいくであろうことが感じられる。まるで、一組の夫婦の終わりまでと、新たな一組の恋人同士のこれからを見るようである。

・男が詠む明るい句と女が詠む暗い句

あるシーンでは複数の句を男女が交互に詠み、またその明暗がはっきり対比する。女が暗い句を詠む様は、祖父より先に死んだ祖母を重ねてみることもできるし、あるいは楽観的な男との対比と見ることもできる。その二人のすれ違いのようなシーンが俳句のみの台詞とその内容を示す身体表現によって表されるのは、現実から乖離しているからこそ心を打ち、緊張感を効果的に高める。

「役として」のみでない身体表現

本作における役者の役割は、ただ役を演じるのみでなく、台詞の表現や展開にダンスの振りが取り入れられている。ごく自然にボディランゲージとして表出する身振り手振りはそのままシームレスに音楽に乗り、男女がシンクロしたダンスへと変わる。台詞や俳句の持つ詩的表現と、ダンスという身体表現が散りばめられ、演劇作品の表現強度を多方向から補強している。

木枠とキャンバスの使い方

本作で用いられる小道具は少ない。鞄やノート、ペンに、中央に置かれた木枠とキャンバスを役者が駆使する。その木枠とキャンパスの使い方のバリエーションが目を惹く。
海岸の水溜まりや窓枠に見立て具体的な何かに仕立て上げたり、映像や詩を投影するスクリーンとして用いたり、あるいは身体表現に奉仕する抽象的な小道具と化したり。姿形が変化するのみでなく、その抽象度も自在に変化し、表現の柔軟性を高める。
また、キャンバスの特性を活用している点に焦点を当てたい。絵の具を乗せる支持体であったキャンバスは、その描画が固定的な反面、可搬性があった。映像の世紀に入り、描画の支持体は電子的ディスプレイとプロジェクターのスクリーンに代わる。描画される画が可変となる一方、キャンバスのサイズと同等のディスプレイ・幕は可搬性には優れないだろう。白のキャンバスをスクリーンとして用いることにより可搬性の高い映像投影を可能にし、プロジェクターの投影可能範囲全体を(場の奥行きも利用して)表現に取り込んでいた。同時に木枠と合わせ箱型に組み立てられることによって、19世紀末以降モダニズムで意識されることとなるメディアの特性(物質性)としてのキャンバスの立体性も取り入れられる。

まとめ

散文乱文となったが、脚本や俳句の文学性、演技とダンスの身体性、劇構成の対比性、小道具の批判性と高度な表現の各要素から成立して、なおかつ鑑賞者を鑑賞体験に引き入れる完成度の高い演劇作品であった。
東京芸術大学取手キャンパスにて19日・20日のいずれも13時~・16時~開演予定である。時間が合う方に鑑賞を勧めつつ本稿を締めくくる。

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