「やりたいことがない」ことについて
「人に必要とされて初めて、やる気が出る」
そういう言葉になるほどと納得したんだと、笑顔で言う。
「特に、やりたいことは昔から無かった、ということを思い出した・・・」
うーむ・・・。聞いていると、色々思うところや感じるところがあった。けど、何も言えなかった。
なかなか根が深いなとも。それと、何かとても頑ななもの。言葉では届かないとつくづく感じる。
自分の問題として見てみると、私にとっても大切なことが含まれているということで・・・
「やりたいことがない」というのに、どこでも遭遇する。私も、自分のライフワークは「これだ!」みたいなものは、まだ何なのか見えていない。でも、ないわけじゃなくて見えてないのかなと思う。あるいは、気づいていないというか。(いや、やりたいことがないのは嘘で、いくらか思い浮かぶけど、できないな・・・と思っていることも多いのかな。)
子供が産まれて生活も価値観も一変して、最初に直面したのは「家事」だった。一人の時や子供がいないときはなんとなくできていた家事だけど、それは子供が産まれると急にハードルが高くなる。
それで、思うのは、家事は本当に、スキル、技術だなということ。
もちろん最初から天性の家事の才能を持った人や覚えの早い人はいると思うし個人差があるけれど、工夫や練習を重ねてその技術がアップするのだと思う。意識して工夫すれば少しずつわかってくる。技術を持った人に頼む(=家事代行)のも、ひとつのやり方だと思う。
それと同じで、やりたいことをやる、というのも技術なのだ、と最近捉えてみた。そうすると、ちょっと腑に落ちた。
やりたいことがない、って思うのは、無いのではなくて、ただ今までそれをやってこなかっただけ。
それをやっていく練習とかコツを今まで知らずに来て、それが習慣になってしまっているからだし、いきなり大きなこと=結果を考えてしまうと余計できない。
小さな頃から大人になるまで、学校でも職場でも人に強制されて何かをする習慣がついて、それに慣れきってしまうと、急に、「何をやりたいか?」なんて聞かれてもわかるはずがないのかもしれない。
ああ、前の大学では学生に、唐突にそんな質問してしまっていたなあ。
段階、ステップが必要だったなあ。
この捉え方はすごく限定的だけど、そのスキルを身につけるために少しずつ練習や段階が必要なこともあるだろう。
今ある選択肢の中から、できることの中から、自分がやりたいと思えるものをやっていく、そうやってひとつずつ積み上げていくのは言葉の上では当たり前に聞こえるけど、行動の中で本当に理解できたら、確実に楽しい世界へ進めるということなんだろう。
そんなことを書いていたらふと思い出した。あれは何の番組だったか・・・エベレストに登る時の話。
すでに何日もかけて苦労してそこまで来たのに、前を見るとその登りたい山はまだはるか向こうに聳え立っていて、まずそのことに心が砕けるんだと。
それでも、一歩一歩が無力のようでも、それを積み重ねればいつかは着く。
エベレストにははるかに及ばないまでも、北岳に登った時は流石に遠かった。頂上は見えない方がいい時もある。ゴールばかり目指していたら心が折れるかもしれないけど、その過程を楽しめれば別に何も辛いことはない。ゴールまで行けなくても引き返しても、立ち止まってもいいわけで・・・、いやむしろ、目指そうと思わなかった絶景に出会うかもしれない。
それと同じなのかもね。
だんだんグダグダして来たので終わりにしよう。
やりたいことをできるようになるのはひとつの技術。スキル。うっっすら、練習して少しずつ、数ミリずつ、近づいていくことにしよう。ついでに、その途上の景色をもっと楽しめたらより良し。