綿飴に似てる私の声

はっきりと覚えている。これは顔が醜くなり始めた頃からだ。周りの人々が、私の訴えをなかったことにしはじめたのは。

人は、醜い人間は心も醜いと思うようにできているらしい。逆に、美しい顔をした人間の心も美しいと感じるように作られている。

二次性徴を経て、顔も体も醜く成長した私の言うことなど誰も聞き入れなくなったし、正当な訴えも何かと理由をつけて却下かスルーされることが俄然増えた。

そえまでガリガリで顔のつくりもぼやっとしていた私は、とりあえず成績と愛想の良さで何とか普通の人間と同じ扱いを受けてきたけど、思春期で太りだしたのと顔つきが醜さの方向へ傾いていったこともあり、男も女も子供も大人も、私の訴えを軽々しく煩わしく面倒なものだと判断するようになった。

被害妄想だったらどれほど良かったか。

実際、化粧をするようになって周りの反応は変化して、さらに痩せて容姿改善に金をつぎ込むことになると、まるで世間が手のひらを返したように一変した。男女関係なく、容姿によって言葉の重さが違うのだと判断されることに気付いたのは遙か昔だ。

社会人になって仕事をするようになると、顔が見えない相手に対して無礼な人間が多いことに気付いた。顔合わせすると文面とはまるで別人であることが多い。メールだけのやりとりで仕事をする相手とはトラブルも頻発するため、ただひたすら文面上で頭をさげて腰を低く、床に這いつくばるようにしたらトラブルも減った。

コロナ禍でリモートワークが増えると、顔を合わせないままやりとりすることも多くなり、そのぶんいくらこちらが低姿勢でも諍い寸前となることがたびたび発生した。

そして最近思う。

私はたとえこの顔でなかったとしても一定の相手を不快にさせているのではないか。嫌われる相手には一貫性がある。

だとしても。

仕事帰りにスーパーで買ったレインボーの綿飴をかじりながら、私は帰路についていた。薄暗い夜道で、ぽつりぽつりと街灯に照らされながら。綿飴は砂糖の味しかしないが脳にじわっと染み渡る。

毒々しい薬のように。

私は嫌われやすい人間で、たぶん出会った7割くらいは私のことが嫌いだろうと思う。普通の顔をしていたら、5割くらいには減りそうだけど。

それは私が、おかしいことはおかしいと指摘し、嫌なことは嫌だと主張する人間だからだ。おかしいと思うことが多い世界に生きているということもあるけど。

仕事でも作業能率を向上させるために提案したが、聞き入れられたものの面倒な顔をした上司のため息が忘れられない。間違ったことは言ってはいない。ただ、正論を嫌う人間は多く、なあなあに生きていくことを昰とする人は思っている以上に多い。

統率を乱さないでよ、と上司の横顔が言っていた。でも口には出さない。なぜならこちらの主張は正論だし、たしかにそれで作業能率は上がるから。

波風立てないことを第一にしている人間が多いから、世の中はこうなったんだろうなと思う。

いい会社でそれなりの収入を得たい人は自分の主張など押し殺してなあなあに生きていけばいいのだ。そして酒やたばこや風俗や散財や暴力ででストレス発散して、変わらない日常を生きていく。

私にはそれができない。

綿飴を口に放り込むと途端に消えてなくなった。私の声に似ている。

耳を塞いでいるわけではないのに自然と聞いてもらえない言葉たち。それでも私はしつこく訴えていくし、相手の耳にどろどろとした念を注いでいく。私はここにいるのです。私の言葉を無視しないで。

それが生きるということだから。

だから別に嫌われてもいいし、ぜひ嫌ってほしい。私も私のことを嫌いなあなたが大嫌いだから。

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