本屋大賞「流浪の月」から、リディラバ ジャーナルの社会問題記事を読む
※以下の内容は小説「流浪の月/凪良ゆう」のネタバレを激しく含みます。
今年の本屋大賞作は、緊急事態宣言とともに決定した「流浪の月」。毎年大賞作は読むようにしているが、特に今年は様々な社会問題が入り混じる内容で、かなり重厚な作りになっていると感じた。以下激しくネタバレ前提で、登場した社会問題を学ぶリンクを整理してみた。リンク先の内容は、私の勤め先であるリディラバが展開する「リディラバジャーナル」。リンク先の記事は今日(5/11)から一週間無料で読める。
文の小児性愛
文は作中では第二次性徴がこない障害によって小児性愛者となっており、性的な興奮は起こらないという設定。これによって純愛成分が強くなっている。しかし実際の小児性愛者は、当然ながらそうとは限らない。文が偏見の目で見られる背景にある小児性犯罪の実態は根深く、過激な議論が起こりやすいのも頷ける。
小児性愛者と小児犯罪者の境目について考えた記事を読むことで、文の葛藤に深みが出てくる。
記事:「小児性愛者が小児犯罪者に変わるとき」
文が社会から排斥される背景についても言及した記事がある。小児性愛者が小児性犯罪者となってしまう構造にも理解していくべきだ。以下記事からの引用。
「そもそも社会が、大人が子どもに性欲を感じることなんかあり得ないと思っている。でも実際にはあるわけです。犯罪化していない小児性愛という性的な嗜好が理解され、どのように解釈するかを考える土壌が日本社会にはありません。そうすると彼らは社会から孤立し、やがて排除されてしまうでしょう。我々のところに治療に来るのはある意味SOSの表れですが、そうしたSOSすらも出しづらいのが現状です」
孝弘の小児性犯罪者傾向
更紗が伯母さんの家に帰りたくなかったのは、いとこの孝弘が行なっていた性暴力による。中2と小4の年の差は3−4歳。これだけ見ると小児性犯罪?とフィルターがかかるが、第二次性徴前の児童に対する性的嗜好があることを考えると、その思考に基づいて犯行に及んだ孝弘は小児性犯罪者と言うことができる。作中では詳しく描写されておらず、その後についてもわからないが、世間が糾弾すべきは孝弘なのに!と読者は誰もが思うだろう。
そして孝弘のような小児性犯罪者が犯行に及ぶ背景は、貴重かつ衝撃的な小児性犯罪の加害者インタビューを読むと徐々に輪郭が見えてくる。
記事:前編 後編
亮のDV(ドメスティック・バイオレンス)
更紗に激しさを増す亮のDV。合わせて亮は文の事件を週刊誌に晒すなどヒール設定なので、DV自体も読み手は主観で見てしまいがち。しかし一方でDVは、加害者を責めるだけでは解決せず、構造的に捉える必要がある。作中では執拗な亮の更紗への執着から、終盤での和解に読者は安心する。しかし実際はこのようなケースはレアであることがわかる。
記事:「逃げ続けても終わらないDV被害」
本作では家族背景に基づく亮本人の心情なども綴られているので、全体像をイメージするのに役立つ。ここでもDV加害者のインタビューを読むことで、情景のイメージはより重層的になる。身体的暴力だけがDVではない。そして共通点は見いだせる。
記事:「なぜ暴力をふるうのか…元DV加害者の告白」
文の社会復帰
文が最初の監禁事件から社会復帰し、のちにまた好奇の目に晒されていく過程は読者の感情をかき乱す。そして実際の出所者の社旗復帰は、世間からの風当たりと同じくらい大きな問題がある。前述の小児性犯罪と合わせると、犯罪が再生産されていく構造にもなっている。作中では文は家族が受け入れ、生前贈与で金銭的な憂もなかった設定。しかし実際は、家族が出所者を受け入れるケースは少なく、そもそも家族関係が破綻しているケースが多い。
記事:「再犯者率50%。出所者が直面する厳しい現実」
こうしてみると、「流浪の月」のフィクション性は文と更紗のプラトニック純愛成分に紐づく部分が多い。だからこそ多くの共感を呼ぶというのは日本的な気もする。
私自身、めちゃくちゃリアルな小説が至高と思っているわけではない。むしろ現実との上質な乖離を実感できたとき、その小説をきちんと読めた気がして、今回のような記事を書いてしまうんだと思う。非現実的な文の設定、更紗との関係を飲み込むための数々のリアル。そのバランスが絶妙であることが本屋大賞たる所以かも。
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