茶番にコミットする -デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』-
色々とあると思うんだけど、なんかすごい悲しくなったんだよね。私の立場に寄り添ってくれている体裁をしているだけで、実は社会人としてどういう風に振る舞って、どう言う風に落とし所を作ればいいのかと思っているだけで。今分かった気がするのはさ、なんであのとき哀しかったのかはさ、私が期待してたのは、人と人としての関係を信頼して普通に会話して、共有したかったんだと思うんだよね。でも実際のあの場で、この人たちは社会側に寝返ったんだって思わなくちゃいけなかったことが私を哀しくさせたんだなあって。(Yoshi Nomura・Momoco Mochizuki「私が隠れてイニシャルになる必要はない」p.6)
デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(2018=2020, 岩波書店)の第三章は、エリックという青年の体験談から始まっている。
大学で歴史学を学んだのち、デザイン会社の「インターフェース管理者」となった青年エリック。会社は彼に、社内システムの改善を任せる。エリックにはITの知識が一切ないため、改善のためにできることはほとんどない。次第にエリックは暇を持て余すようになっていく。
一見奇妙に見えるこの配属は、全て会社が仕組んだことであった。会社がエリックに要求していたのは「インターフェース担当者」として仕事することではなく、「インターフェース担当者」であることだった。
実はエリックが任された改善は、あるひとりのパートナーを除いて、誰一人望んでいないものだった。とはいえパートナーの発案である手前、何もしないわけにもいかない。そこで会社は、ITの経験のない史学科出身のエリックにその業務を担当させた。改善に向けた努力をパートナーにアピールしつつ、実質的な改善は行われないという状況を作りだすこと。これこそが会社の狙いであった。
この状況の無意味さに耐えかねたエリックは、反乱行動に乗り出す。酩酊したまま出勤し、ありもしない出張をでっちあげて豪遊し、社費で名門ゴルフ場に通う。
彼はクビになることを望んでいた。しかし会社はそれを許さない。奇妙なことに、辞めようとすればするほど会社は給料を上げ、全力でエリックを慰留し、エリックの退職をなんとしても阻止しようとする。しかし慰留されればされるほど、エリックは仕事に苦痛を感じるようになっていく。
何もしなくても大金が支払われる。エリックはなぜ、この夢のような仕事に耐えられなかったのか。これは興味深い論点だが、本稿の主題ではない。ここで注目したいのは、グレーバーが設定した想像上の青年、アンチ・エリックである。
エリック。本稿とはなんの関係もない。
アンチ・エリックはエリックと全く同一の状況に置かれてはいるが、アンチ・エリックは仕事に希望を抱いておらず、仕事を一種の茶番として捉えている。仕事はなんらかの目的に奉仕するものではなく、会社を舞台にしたコントであると捉える。茶番を茶番と見抜ける賢さと、「インターフェース担当者」としての茶番にコミットできる器用さを持つアンチ・エリックは、さながらコメディ俳優のように、会社に期待される役割を完璧に演じる。その裏で、自由に使える時間と金によって社会関係資本を蓄積させ、もっとマシな仕事へのステップアップをめざす。
穴掘りと穴埋めを無限に繰り返させることが刑罰として成立するように、無意味な営みは人間の精神を破壊する。一方、シシュポスが何度押しあげても転げ落ちていく岩が示唆するように、生とは無意味な営みに過ぎない。では、無意味な生をどう生きるか。無意味性に直面することなく生を終わらせるには、どうすればよいか。その答えのひとつこそが、アンチ・エリックである。
アンチ・エリックはあらゆるものを茶番とみなす。仕事。恋愛。国家。どんなものであれ、生の無意味さに直面しないよう人間が作りだした緩衝材に過ぎない。ゆえに根源的には無意味である。アンチ・エリックは、そうであってほしくないとどこかで願いながらも、しかしそうでないはずがないことを知っている。
彼は決してそれを口にしない。それを口にすることは、彼にとって穴掘りの拷問に等しい。ゆえに彼は、あたかもそれらに目的があるかのようにふるまう茶番にコミットする。具体的には、それぞれの場所で求められている役割を演じる。アンチ・エリックは、仕事の無意味さを知りつつ今日もデスクに座る。男らしさの無意味さを知りつつ、今日も恋人に財布を出させない。国家の無意味さを知りつつ、星と縞が永遠であることを祈りながら胸に手を当てる。
エリック。やはり本稿とは何の関係もない。
無意味な生を生きねばならないならば、せめてアンチ・エリックでありたい。しかし、アンチ・エリックになることすら、万人に開かれた扉ではない。グレーバーは、エリックとアンチ・エリックの違いはその出自にあるという。エリックはブルーカラー、アンチ・エリックはホワイトカラーの出身である。ホワイトカラーであるアンチ・エリックは、仕事の無意味さについて早くから知り、それに備えることができた。自らがコミットする茶番を選択する余裕が彼にはあった。しかし、ブルーカラーからの階層移動を実現したエリックには、茶番を選択する余地など最初からなかった。二人が直面しているのは同じ茶番ではない。アンチ・エリックは茶番にコミットしている。しかしエリックは、ただ茶番に投げ込まれたのだ。
エリックは声をあげる。これは茶番だ。無意味だ。こんな話は聞いていない。ここから離脱させてくれ。そんなエリックに対し、アンチ・エリックは哀れみの目を向けながら言う。生きるってのはそんなもんだよ。僕だって茶番であることはわかってるさ。大人になりなよ。そんなことを言っている暇があるなら、どううまく茶番と付き合うか考えなよ。
グレーバーによれば、エリックはなんとか自分自身の身代わりを探しだし、休暇中の上司の部屋のドアの下から辞表を投げ込んで、モロッコのエッサウィラへと逃亡したそうだ。エリックがどこかでマシな茶番を見つけられたことを、願わずにはいられない。
モロッコ・エッサウィラ。エリックが写っているかもしれない。