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【戦後75年。参加者募集】沖縄戦を後世に伝えるガイドを養成する講座を行いたい

こんにちは、沖縄南部観光局です!今回は沖縄南部で行われる講座のお知らせです。今から75年前、沖縄本島南部では激しい戦争があったのをご存じでしょうか。

~沖縄戦から75年~

1945年3月末、米軍は沖縄本島南部への陽動作戦を実施し、慶良間諸島に上陸。その後、4月1日に沖縄本島へと上陸し、米軍と日本軍は激しい戦いを繰り広げました。日本軍の司令部が置かれたのは首里城の地下。現在内部は公開されていませんが、その入口付近は見学することが出来ます。

中部から上陸した米軍はまず沖縄本島を南北に分断。米軍は北部を3週間ほどで攻略した一方で、首里城の前線となる中南部では非常に激しい戦いが行われました。当時の沖縄の人々は「まさか沖縄が戦場になる」とは思ってもおらず、さらには、沖縄から九州へと疎開する人を乗せた船が、米軍の攻撃を受けて沈没するということもあり、疎開はなかなか進まなかったそうです。つまり、住民がいる中で戦争が行われたというのが、沖縄戦の特徴です。

~沖縄戦の風化が懸念されています~

沖縄本島の中南部で激しい戦いが行われている中、一般の住民の方たちは沖縄本島南部に点在する、「ガマ」と呼ばれる鍾乳洞に避難していました。5月末になると米軍は首里城に到達。日本軍は住民が避難している、本島南部へと司令部を移す決定を下します。それを追って、米軍も沖縄本島南部へと入っていきました。米軍は人々が避難しているガマの前で、投降を呼び掛けました。その場で投降した住民は米軍の捕虜となり、投降しなければ火炎放射などの攻撃を受けます。米軍の捕虜となれば、収容所で食事なども与えられたそうです。ただ当時、米軍に投降することは、非国民の称号を与えられることになり、さらには自分がいるガマに日本軍がいたらスパイ扱いされ殺されることもありました。「米軍よりも日本軍が怖かった」。そんな証言も残されています。ただ、日本軍の方も必死です。沖縄県外からも多くの方が沖縄に招集され、家族を地元において、日本のために命を懸けているのです。

1945年6月23日。日本軍の牛島司令官が自決をしたことで、軍の組織的な抵抗は終了したとされています。今年で沖縄戦が終了してから75年。戦争を経験された方や、現役のガイドの高齢化が深刻な課題となり、沖縄の平和学習は重要な局面を迎えています。


~次世代で沖縄戦を学び紡いでいく~

昨年、沖縄タイムスにもこんな記事が出ました。

沖縄で生まれ育った今の20代やその親世代は、学校で沖縄戦を学ぶ機会がそれほどありません。教科書も当然全国と同じものを使っているので、沖縄戦の記述は1、2行のみです。沖縄戦の歴史を風化させず、自然災害とは異なる戦争の悲惨さや、これからの平和を考えていくために、次世代への継承は不可欠です。

広島や長崎にある資料館の来館者は増えており、沖縄でも観光客数が増加する一方で、沖縄の平和祈念資料館の来館者数は年々減少しています。このままでは、沖縄戦のことを知る人がどんどん減っていってしまいます。沖縄には、多くの修学旅行生が平和学習を目的に訪れますが、すでにそうした需要に対しても『ガイド不足』によって応えられなくなってきています。

このnoteをご覧いただいている方は恐らく若い方がほとんどだと思います(このnote記事を書いている私も20代です)。ぜひこの機会に勉強会にご参加いただければと思います。


勉強会を受講していただくと、修学旅行生の平和学習の場でガイドとしてもご活躍していただけます(お給料が発生します)。沖縄戦の基礎を学び、その学びを後世に伝えていくというのは、きっと貴重な経験になるはずです。

勉強会だけでもぜひ、ご参加いただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。

※沖縄県外に住んでおり、今回の講座に参加出来ない場合は、この記事を拡散していただけたら嬉しいです。


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