「繊細さん」は他者に敏感で共感的なのか???
率直に言って、自称HSPや繊細さんが敏感なのは自分の感情や願望だし、他者に人格や事情があるのを想定できずに自分の感情をマッピングしてるだけに思えるよ。
自称HSPへのモヤモヤ
「繊細さん」という言葉が定着してからしばらく経つように思う。
私はこの言葉は好きじゃない。自分がそうだと言うのも嫌だ。
これは「繊細さん」や「HSP」に必要以上に心理的アレルギー反応を出す自分の観察なので、誰かを攻撃する意図はない。ただ、苛立ちや嫌悪感まじりの文章になってしまうことは否めない。それは多分、「HSP界隈」の中に自分自身の嫌な側面を見出しているからである。自分の中にある「HSPを自称する自分」のイメージに対して陰性感情を持ってしまうのであり、その理由を探ろうとしているのである。
そして、そんな負の感情を押し殺しながら物分かりよく話をまとめようとしても、きっとどこか不適切なところで怒りが噴出しそうである。自身の怒りの感情への受容と肯定、成仏への願いを込めて、私が嫌いなナニカについて「自称HSP」と言う表現をあえて使う。
もしこれを見て「傷ついた」「攻撃された」と思うなら、それは私の文章に投影した自分の中の”何か”の叫びだと思うから、むきあってみたらいい。
最初に「繊細さん」と言う言葉を知ったときは、なるほどねとしか思わなかった。自分もそう言う傾向があるよねと知人に言われたりしたし、多分誰でも少しずつは持っていて、社会の中で困っていることが明文化されたのだなと、どちらかというとポジティブに捉えていた。
違和感
自称「繊細さん」が書いたHSPの本を読んだ。
光や音が苦手、相手に一気に話されたり、複数人から同時に話しかけられたりするとブラックアウトする。
自分にも思い当たる節があったし、それを治そうとするより傾向を知って対策を練ったらいい、他にも同じことで困っている人がいて、それが世の中に発信されつつある、と言うことには大いに勇気づけられた。
それで、系統立てて説明された本を読むことで、自分の中の何かが癒やされるのではないかと期待したのである。しかしすぐに後悔した。
私は世の中に向けて発信をされた「HSP取扱説明書」に数千円を払ったことを腹立たしく感じた。そして、HSPではない(と勝手に自称HSPが決めつけている)人のことを「非HSP」といきなり呼ぶ筆者の図太さと攻撃性と優越意識に対し、嫌悪感を持った。
その本に、「繊細な私たちを、そうでない人たちはよく理解して正当に取り扱ってね」と言うメッセージを汲み取ったのである。
そしておそらく、そういったメッセージ性を敏感に汲み取ってしまう自分の中に、他人へのこういう欲求や押し付けがあるのだ。
この欲求に応えてもらえない、と感じたとき、相手から攻撃されたように感じたり、世間が怖いと感じたりして、喚いたり相手に噛み付いたりする。
年齢を重ねて、ある程度コントロールできていると感じていた自分の未熟さや身勝手な欲求が、やっぱり浄化されないまま残っていて、自分で制御できずに息づいているのだと気づいてガッカリしてしまった。
「HSPって共感性が高い」への違和感
「繊細さん」は相手への共感性が高い、と言われるが、これに一番違和感を感じる。少なくとも(いやだけど)自分も含め、自称HSP傾向が高い人というのは、自分の感情や感覚には敏感だが相手の立場や感情には鈍感だと思う。
というより、相手の立場や感情にまで自分を拡張して、勝手に怒ったり悲しんだりする。
「相手は相手」という境界分けが苦手で、相手の領域まで自我の触手を勝手に伸ばしているだけじゃないか?
自称HSPが「誰かが叱られていると自分が辛くなる」というのは、相手の立場や経験や感情を無理やり自分と地続きにしているように思えて、相手の体験を自分ごとにすり替えてしまうような気がして嫌悪感が湧くのである。
誰かが座って、そこから景色を見たり感じたり考えたりしている玉座を横から奪い取って、勝手なる自分の感性で物を言っているように思えてしまう。
相手の領域への侵入、「私をわかって」という押し付け、周囲の刺激を勝手に自分と関連づける、どれも「共感性」というよりも「自己中」にしか思えない。相手も自分と同じ、一つの独立した人間であり、自分とは違う生活史を持ち、違う事情や感性を持っていて、その人の体験も感情も課題もその人のことだ、と言う当たり前の事実が理解できないのである。
繊細な私たち
自分の周囲の人間を「非HSP」と一括りにして、まるで苦労をしていないかのような物言いも非常に気に食わない。
みんな少なからず、嫌なことを我慢して、わざわざ「お気持ち表明」せずにやってるだけじゃないの?・・・と、自分が言われてもないのに憤ってしまうあたり、私も「他人のことは他人のこと」という「尊重ゆえの放置」ができない人間なのだろう。
元からモヤモヤを感じていたにしろ、なぜ今、あえて文章にしようとするくらい、苛立ちが意識の中に浮上してきたのだろう。
きっかけは極小さなものの積み重ねかな。
動物、自然のライブ配信で、少しでも違和感があると現場の人に干渉しようとする人を見た時(自分の不安や苛立ちをすぐ他人に解消させようとする)
自称HSPの知り合いが、相変わらず気に入らない人を陰湿に攻撃しているのを人伝に聞いた時(自分のご機嫌は周りがとって当然だと思っている)
別れた相手から、時々「繊細さんだ」と指摘を受けた場面を思い出した時(相手が期待通り動いてくれないから自分を否定された、と自分の価値を相手になんとかしてもらおうと依存している)
話し声が耳に刺さるように響いて、つい耳を塞いで、気づいた相手を傷つけてしまったかもしれない時(繊細な被害者ぶって相手を加害者に仕立て上げてしまった)。
自分なりの結論から言うと、今の自分が
周りの人や事に対してお節介になっていて、かつ「私のことをもっとわかってほしい」モードになっているから
繊細さんを自称して、かつそれを躊躇いなく発信する人たちや、自分以外を「非HSP」などと繊細さや共感性のかけらもない呼称で呼ぶことになんの葛藤も持たない人たちが、なんだか羨ましいのだろう。
だから、こうして私を知ってくださいと発信する傍ら、自分は意地でも「HSP」などとは自称せず、年内を乗り切ろうと思っている。
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