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電車の”不便な楽しさ”が好きだったりする
高校の時は地元から離れた地区の学校に通っていた。
受験勉強なんてやらなかったので、滑り止めで合格した私立高校に電車にのっていた。
地元にいる内は電車に乗ることなんて少なかったけれども、通学で使うようになってからは、電車に乗る頻度が当然上がった。
(当然と言えば当然なのだが)
高校生の頃に電車に沢山乗ったせいか、電車に乗ってどこかに足を運ぶのが好きになった。
電車の中で本を読んだり、勉強したり、友達とゲームしたり、流れる景色を見ながら深く思考するのも、どれも好きだった。
多分僕と一緒に思い出も電車に乗っているんだと思う。
自分で運転しなくても良いので、乗車中はある程度の自由をもたらしてくれる。
その自由な時間を堪能するのが好きなんだと思う。
それに加えて、電車ならではの眺めも好きだ。
車から見えるのは車道が通っている場所だけだ。
電車で言い換えるならば、電車の窓から見えるのは線路が通っている景気であり、車道からでは見えない電車ならではの景色ということになる。
そういう時間も堪らなく好きでもある。
都内の電車は非常に便利で都内ならどこにでも連れていってくれる。
電車を一時間も待つことはほとんど無い。せわしなく来る電車は、安心感もあるが少しの焦燥感も含まれていると思う。
しかし、田舎の電車はどうだろうか?
都内のような便利性はあまりない。
でも僕は田舎の電車の便利性が効かないことが逆に好きでもある。
改めて言うと、田舎は一時間に一本電車があるか無いかぐらいの本数なので、都内と比較すると電車の不便性は確かにある。
そんな中で、電車を待ちながら田舎の風景を眺め、ホームの音や町や自然の音を聞いて電車をゆっくりと待つのも好きだ。
(これは都内では感じられない大きなメリットかなと思っている。)
この点においては人生にも似たところがあるんじゃないかなと思う。
来るか来ないかのチャンスという電車を待ち、運よく乗車したならチャンスに身を任せて自分の目的地に向かう。
途中で下車をするのも良いし、もう少し乗ってみて遠くまで旅をするのもきっと悪くない。
チャンスに乗りながら、チャンスならではの景色を楽しみ、チャンスに乗り込んでくる人とつながり、外の景色を眺めて深く自問自答するのも面白いと思う。
チャンスに乗るには、乗れるだけの切符も必要不可欠だ。
その為に日々努力しなければならない。
無論その為なら頑張れるけれども。。。
チャンスが来なければ、車に乗って自分で向かいに行くのも悪くない。