子どもにとっての帰省の風景

記憶の中のゴールデンウィークは、朝もはよ~から起こされて、父の運転する車に乗せられ、ばぁやんのいる田舎に行くウィークだった。まだ高速道路網も、全国あちこち途切れ途切れで、JRはもちろん国鉄と呼ばれていた時代。平常と違い、ばぁやんの家まではどれくらいかかるかすらわからないので、夜明け前から母はおにぎりだのなんだのを準備して、ピクニックよろしくバスケットに詰め込んでいた。私は子供のころから睡眠が不安定な傾向で、いまでも翌日何らかのお出かけイベントがあると途端に眠れなくなったりする。だから、うちの両親は前日までそんな素振りを見せずに、まるで人が見ていない間に夜逃げするかのように、まだ眠っている私を叩き起こし、祖母の家へと連行するのだ。子供のころから行動パターンのこだわりが強い私にとって、こういう行動パターンを崩されることは実に苦手であった。

さて、無事に車中の人となったわが家族だが、朝食を食べて出たにも関わらず、ものの1時間もしないうちに母がバスケットをガサゴソやっておにぎりを取り出し、「食べる?」とか聞いてくる。このころは知らなかったことに、世の女性の多くは一日中何かしらを食べ続けられる人が多いということ。母はおにぎりを頬張ったかと思えば、また少ししてアメを取り出しては食べ、「口が甘くなった」っと言っては次にスルメを取り出しては噛み千切り始めていた。そのたびごとに母は運転する父に「食べる?」とか聞いているが、父は運転しているので「食べる」とは言わない。ついでに後席の子供に「食べる?」と聞くが、そもそも朝飯を食べて胃が空いていないので「食べる」と言えない。ひたすら母は自分の退屈を紛らわすために食べ続けるのだった。

車は高速に乗り、スピードを上げた。だんだんと景色は都会の家々が後ろに消えてゆき、うねる高速道路の右左に新緑の山に野が時折ぽつぽつと都会では見られない大きな農家を抱えて展開し始めていた。抜きつ抜かれつするほかの車たちも、父親らしき人が右前の席に、助手席にはお母さん、後ろは子供、といった配置が窓越しに覗けた。

高速を小一時間ほど走ると毎年馴染みのSAが見えてくるので、そこでトイレ休憩をとる。今ほどSAブームじゃなかったので、レストハウスの食事も街の大衆食堂もご当地意識も乏しく似たようなメニューだった。母はそこでも「五平餅」を食うと言って購入して、再び走り出した車内でパクついていた。甘いみそだれの香ばしい香りが車内に充満し、否が応でも「今年も帰省する」気分を盛り上げたのだった。

当時、西側中央高速は長らく伊北までしか通じておらず、途中の恵那山トンネルはまだ対面通行で最大の難所だった。トンネルのしばらく前から対面通行区間が始まり、GWの車は数珠つなぎにスピードを落としていく。長い長い恵那山トンネルはひたすらオレンジ色の世界が延々と続く。8キロもの同じ景色が続くオレンジのトンネルの世界を、父は良く我慢して運転し続けたものだと今更ながら感心する。

トンネルを抜けると木曽から伊那谷だった。19号線をひたすら走ると木曽谷を中央本線沿いに進んでいくが、中央高速は木曽谷から伊那谷へ抜けていくのだ。アルプスが見えるSAでまた小休憩して、また少し走ると伊北で高速道路は途切れる。そこから下道に降りて、ひたすらひたすら渋滞の中を北進するのが我が家の常道だった。

何年かに一ぺん、渋滞で並ぶのに飽きた父が、裏道を開拓しようと無茶をすることがあった。素直に国道を進んでいれば、時間はかかってもあまり頭を使わずに目的地にいつかはたどり着ける。しかし、一歩でも二歩でも前後の車より、先んじることはできないだろうか?また、誰も知らない裏道を、自分なら開拓できるのではないだろうか?・・・と思ったかどうか知らないが、「こっちへ入ってみよう」とハンドルを切り、国道の渋滞を逸れて走り出す。大抵予想もつかないところに出たり、どんどんもとの道から方向が変わったり、酷い場合には道が行き止まったりすることも度々で、そりゃ地元の人ですら素直に渋滞に並んでんだから、そうは上手くいかないよなぁ、と思ったもんだった。でもなんとなくその冒険が面白くて、「こっち行ってみようよ」とけしかけたりしてみて、父も「おう」と答えハンドルを切ってくれた。

結局、元の国道から外れた位置からそう遠くないところで再び合流し、仕方なく渋滞を受け入れるのが、これもまた常道だった。

朝早く出たのに、途中高かった太陽もすっかり傾き、前の車のテールランプの光の明滅がはっきりとわかるようになってきたころ、ようやくばぁやんの家に通じる道への分かれ道に入れる。車は少なくなり、あとはスムーズに山道をたどっていくだけだ。大人の今ならうんざりするような一日だが、子供にとってはもうじきこれが終わってしまうガッカリ感の方が、もうじきばぁやんに会える嬉しさを上回ってしまう瞬間である。

いつしかばぁやんの地域に入り、いくつかの集落を抜け、ばぁやんの集落に入ると両親はどちらともなく「やれやれ、やっとついた」と言う。子供だった私は、この後に来る親戚一同に対面し、挨拶する気恥ずかしさで、なんとなく無口になっていた。子供たちと上手に溶け込めない子供だった私にとって、GWのイトコの集まりは(ある程度なじむまで)何気に苦痛だった。

車はばぁやんの家の前に止まる。ドアを開けると田舎特有のひんやりした夕景の空気と草の香り、それから背中からは長く走ってきた我が家の車の熱とエンジンの匂いが伝わってくる。

「あーあ、もうちょっと早くついていれば、川を見に行けたのにな」

終ってしまった旅の感情や大切さなど忘れて、子供は次の時間軸で世界を判断する。ばぁやんの家の周りには、大好きな風景やモノがいっぱいあった。

2泊3日のばぁやんの家への帰省。両親がお土産を前に親戚一同と挨拶合戦を始めるなかで、後ろに控えるイトコたちとなんとなく近づくタイミングを計る、それが子供にとってのGWの帰省だった気がする。


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