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こんな映画を観た③ー『夕やけ雲』1956.木下恵介

「木下恵介のときは”女”ではない女優が、成瀬が撮ると女優になる」といったのは誰だったか。この言葉を真に受けてしまったが為に、木下恵介の映画を長らく敬遠していたのは全くの間違いだった。劇中で女優の口から零れ落ちる「昔だって今だって女は女だもの」という台詞を耳にすれば、この映画に登場する人々は紛れもなく”男”と”女”であると言わざるを得ないだろう。

戦後の暗さを目一杯引きずった本作は、魚屋を営む貧しい一家の生活を、過度にウェットにならないよう、省略を味方につけて、流れるように描いていく。一家の主が病の為に命を引き取る際の画を見せつけはしないし、結婚式当日に前の恋人に頬を打たれる花嫁のショットも矢鱈乾いて提示されるものだから、ありがちな悲痛さを味わわなくても良い。突発的に繰り広げられる暴力のみを切り取ること……そこに、木下の美学さえ感じ取ることができた。

美学と言えば、「背中」を捉えるショットを重ねていくこともまた、そのうちの一つとして数えることが出来るであろう。冒頭付近で印象的に映る少年の背中。双眼鏡を覗いて遠くに住む女性を想う背中。滅多にないご馳走を食べる際に向けられる背中。父が逝き、姉が嫁いでゆき、妹が養子として家を離れ、更には親友が北海道へと引っ越しをする本作に於いて、主人公の少年ヨイチは何度も何度も見送る立場を強いられる。木下は、その寂しさや孤独の表情をアップで捉えることを良しとせず、「背中」で語らせるのである。雄弁な背中は、彼の胸中をさらけ出し、同じ場所に留まるしかない者であることをどうしようもなく認めているかのようで切ない。この映画の主題が「別れ」であり、それを背中に託している木下の演出はなんて頼もしいのであろうか。

また、親友との「別れ」は、「背中」だけにとどまらない。手や脚を触れ合えば触れ合うほど、寧ろ強くハッキリと「別れ」を予感させるということは小栗康平『泥の河』でも分かることだが、その効果は本作に於いても十二分に発揮していることは明らかだ。端正なショットと分かり易い演出。このふたつを兼ね備えた監督だとは知らなかった。もしかしたら、最も誤解されている監督の一人かもしれない。

text by K.M.