連環からの脱出

昨日の投稿以降のことをまとめます。まあなんか危機感を覚えて、考える気になったのだと思います。

主に「ニヒリズム」の危険性、誤解、「これからの生き方」についての仮の考え方です。

ニーチェは当時絶対的な価値であったキリスト教を喝破したわけです。「世の中に事実は存在しない、存在するのは解釈のみ。」と。そしてニヒリズムへの向き合い方として積極的ニヒリズムと消極的ニヒリズムの2つがあるといったわけです。積極的ニヒリズムとは「絶対的で本質的な価値が無いなら、自分でその価値を作ってしまえ。」という態度。そして消極的ニヒリズムとは「すべてのことに価値が無いのなら、何をやっても価値がない、頑張るだけ損だ。」という態度。ニーチェは「絶対的な価値がないのなら、各々がそれぞれの価値を規定して、それに向かって精進せよ。」と積極的ニヒリズムを肯定しました。

そこでまずニヒリズムの危険性について。このことは前から認識してたけど「各々が持つそれぞれの価値」は例え一般的に好ましくないものであっても、否定されないということ。ヒトラーがニーチェの哲学を悪用したことは有名だけど、もし「人を殺すための技術を高めてます!」って言われても否定ができない。つまり悪意を持った人が積極的ニヒリズムを適用するようになると危険だということです。

次に誤解について。自分は積極的ニヒリズムの考え方に共感していましたが、積極的ニヒリズムは消極的ニヒリズムよりマシ程度の考えであることに気づきました。うじうじして消極的ニヒの態度取ってる人よりかはマシかもしれないけど、積極的ニヒリズムは必ずしも肯定されないわけです。そもそもニヒリズムとは「物事は本質的には価値がない。」という考え方。つまりキリスト教にも消極的ニヒにも積極的ニヒにも等しく価値はないわけです。ニーチェの積極的ニヒに無思考に傾倒するということは、ニヒリズムの前提に対して矛盾するわけですね。積極的ニヒに対する特別視をやめよう!ってことです。

そして「これからの生き方について」で、良いことも悪いことも全てありのままを受け入れることがニヒリズムの到達点で、「個人的な価値を規定して、一生懸命生きよう」ではないと思うんですよね。その上で行きつく先は「趣味判断」(エイヤーの言う情緒主義)に基づくのが良いのかなと。「好き」「嫌い」「よい」「わるい」を主観的な判断によって規定して、それに基づいて思考する。ニーチェの哲学とは「真の意味で相対主義を知ること」であって、そこから積極的ニヒを「価値」だと思わないことですね。積極的ニヒが好きならまあそうすればええんちゃう?程度で。そして「好き」な考えや価値観に寄り添って、生き方を決めて行けば良いのかと。振りかぶって積極的ニヒを標榜するから苦しいのであって、これから「好き」な考えを見つけて行く。ニーチェに傾倒してるようじゃまだ甘い。カミュとかサルトルとか勉強してみようと思います。いつも結論はシンプルなものです。


これからがはじまりなのです。

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