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」詩人「

 「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」言わずと知れた芭蕉の句である。久しぶりに手に取ったオクタビオ・パスの『太陽の石』という詩が収録された本にパスの翻訳が載っていた。初訳は「静寂 蝉の鳴き声 岩にしみ入る」という直訳的なもの。十数年後の再訳は「ガラスの休戦 蝉の鳴き声 岩を穿つ」。ガラスの休戦?  何のこっちゃ、とパスの説明を読む気にならなかったのだが、ようやく読むタイミングが訪れた。

 長いので省略するが「私の訳は奔放に過ぎたかもしれない」と断りをいれつつ「自然界における停止と停戦の瞬間。この瞬間は沈黙であり、その沈黙は透明である。音が沈黙を通過するように、イメージがガラスの透明体を貫通するのである」と説明している。わかろうとしなければ、なんのことかさっぱりわからない。いや、たとえわかったと思ったところで、芭蕉の句ではなく、パスの句としてだろう。

 「坐ったら 岩になったさ ミンミンミー」 今、思いつきました。芭蕉の心は芭蕉のみぞ知るところで、その心とやらは不断に動き回っていて、とらえどころはない。パス曰く「いかなる翻訳においても直訳はありえないし、直訳しうるはずがないことを理解してほしい。バレリーが述べたように、異なる手段を用いて類似の効果を出さねばならない」。ああ、やはり俺は「詩人」ではないな、ミーンミンミンミー。