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風の時代に向けて、手放すもの -2024年版 "言霊降ろし"

あなたが笑ってくれることが、嬉しかった。
あなたが笑ってくれることが、嬉しかった。
あなたが幸せそうな表情で「ありがとう」と言ってくれるのならば、それだけでよかった。

…はずだったのに。

あなたの笑顔のためなら、わたしが傷ついても構わなかった。
あなたの幸せのためなら、わたしが我慢するなんて造作もなかった。
あなたたちが平穏に暮らせるのならば、喜んでこの身体と生命を差し出そう。
それこそが、わたしの喜びであり、わたしがここに居る、意味。

そのはずだった、のに…。

「ありがとう」をもらった喜びで、血に滲むこころを隠した。
傷ついた手足の痛みを、見ないフリをした。
崩れ落ちそうになる重圧に、気づかないフリをした。

わたしが耐え抜くことで、あなたたちの痛みを一身に背負うことで、あなたたちが幸せになれるのならば。それがきっと、わたしの生きる意味なのだと、信じて、疑わなかった。

みんなの幸せを願う心。「ありがとう」と言われることで喜ぶこの心。その気持ちは、真実だった、はずなのに…。

わたしも人間なのだ。
傷ついた心からは血が流れるし、痛みも感じる。

そのたびに、「わたしも救われたい」
そう思ってしまうわたしは、罪深い存在なのでしょうか?
この気持ちは、この心は、みんなへの、裏切りなのでしょうか?


・ ・ ・ ・ ・


自分のなかにある「幸せを選択すること」への罪の意識と、向き合わないといけないと思った。潜在意識にべったりと張り付いている、想念。

「わたしが幸せや心地よさを選択するとき、その裏で悲しみや苦しみを味わう人がいる」
「わたしの幸せや心地よさは、誰かの悲しみや不幸と引き換えに得たものである」

その想念がどこから来たのかは、そんなに深く考えずともわかっていた。
幼少期から、わたしは「母を愛さなければいけない・・・・・・・・・・」と感じていた。

子どもが親を愛するのは当然の義務であり、責任であった。それが、どんな親であったとしても。それが、自分の心地よさやしあわせを諦めることであったとしても。「親を愛し、親に尽くすこと」それが、子どもの責任。その責任をまっとうしなければ、子どものせいで・・・・・・・親が不幸になる。親の不幸は、悲しみは、子どもの責任なのだ。


けれど、わたしの中にべったりと存在する「自分の幸せを選択すること」への罪悪感を深掘りしていくと、もっともっと、深くて重たいものが出てきた。


・ ・ ・ ・ ・


この記事を、『天気の子ども』を観ながら、書いている。

新海誠監督の『君の名は』『天気の子ども』『すずめの戸締り』のなかで、わたしは一番、『天気の子ども』が好きだ。

三部作のなかで、唯一、「世界が滅びたとしても、それでも、俺はあなたに生きていてほしい」と、声高に叫んでくれる映画だから。唯一、本当の意味で、「人柱」となった少女が、救われる夢だから。


"人柱"。
その言葉は、昔から、わたしの心の奥深いところを、刺激する。ずくんと、疼く。どう説明すればいいのか分からない、かなしさとか、もどかしさとか、切なさとか、行き場のない、感情たち。

大人になって、いろんなことを知った。
母親方の血筋には、中世魔女狩り時代に火あぶりにされた "魔女" たちがいること。
父親方の血筋は、人柱をたてていた側である、縄文時代から瀬戸内のほうにいた祭祀系の豪族だったこと。

わたしの中には、「人柱にされた」側の血の記憶と、「人柱にした」側の血の記憶が、ふたり、仲良く並んで存在している。


「誰かのために、自分を犠牲にしなくてもいい」
「わたしは、わたしの幸せを選んでいい」
「わたしがわたしの幸せを選ぶことで、まわりもちゃんと幸せになっていく」

そういった想念を、あたらしく自分のなかに入れていこうとした。
その過程のなかで、手放すべきいろんな想念が、自然と湧き上がってくる。
湧き上がってくる想念を、ひとつずつ手放していく。

そのなかで、ふと目の前に出てきたのは、ゴルゴダの丘で、十字架にかけられようとするイエス・キリストの顔だった。


2000年。

この2000年の間、「みんなの幸せの引き換えに、誰か一人にみんなの不幸を背負わせればいい」という考えがあった。

みんなが幸せになるためには、みんなの不幸や悲しみを、誰かが肩代わりしなければいけない。
自分の幸せというものは、誰かの不幸との、交換条件なのだ。

そういう信念が、あった。

誰も、意識してはいない。顕在意識にはのぼらない。けれど、潜在意識には、確かに存在している。


幸せになることへの罪の意識は、自分たちが幸せな生活を営むために、人柱となった誰かがいたことを、血の記憶が、覚えているから。

幸せになることへの罪の意識は、自分がこの身を人柱として捧げることで、救われるはずのたくさんの人の生命があったことを、血の記憶が、覚えているから。

「でもまあ、仮にさ。
人柱一人で狂った天気が元に戻るんなら、俺は歓迎だけどね。
っていうか、みんなそうだろ」

『天気の子ども』


人柱として空(彼岸)に召された陽菜を追って、彼岸をわたり、空に陽菜を迎えにいった主人公の帆高。

「陽菜、一緒に帰ろう」
「でもわたしが戻ったら、また天気が…」
「もういい!もういいよ!陽菜はもう、晴れ女なんかじゃない!
もう二度と晴れなくたっていい。青空よりも、俺は陽菜がいい
天気なんて、狂ったままでいいんだ!」

『天気の子ども』

そして初めて、「人柱」であった陽菜は、誰のためでもなく、自分自身のために祈った。
世界の天気は狂った。
陽菜を空からとりもどした日から、雨は止むことを知らず、3年間、毎日降りつづけた。その結果、東京はそのほとんどが海の底に沈んだ。

けれど、この3年間の大雨の影響で、今まで住んでいた家が海の底に沈んでしまった東京の住人は言う。

「知っているかい?東京のあの辺はさ、もともとは海だったんだよ。ほんの200年くらい前までは、さ。江戸そのものが海の入江だったそうだよ。それを人間と天気が少しずつ変えてきたんだ。

だからまぁ、元に戻っただけだわ。…なんて思ったりもするね」

『天気の子ども』


・ ・ ・ ・ ・


なぜ今までの数千年間、誰か一人の犠牲のうえに、何百の人たちが救われる構図が、当たり前のようにあったんだろう?なぜ、イエスキリストは、彼の前、そして彼の後にくるすべての人間たちの原罪を一身に背負って、死ななければならなかったのだろう?

それはきっと、当時、人はみんな、まだ、無力だったからだ。まだ、未熟だったからだ。まだ、弱かったからだ。自分自身で、その身に背負うだけの強さが、智慧が、なかったからだ。


この世界には、陰陽がある。光と影がある。どちらもある。どちらかだけには切り離せない。けれど、そんな風に世界を見ることは、まだできなかった。白は、白として存在してほしかった。黒は、黒として存在してほしかった。そうすれば、心置きなく、迷うことなく、白を愛し、黒を憎むだけですんだ。悪魔を恐れ、天使を愛し、祈れば悪から救われるのだと、信じる方が、楽だった。

でも、これからの時代は、きっともう、そういうわけには行かない。


風の時代が、はじまる。
「個」の時代だ。

それはつまり、誰も、あなたの幸せのために、世の中の不幸や苦しみを肩代わりして、一身に引き受けて、「人柱」となってくれることは、ないということ。

それはつまり、誰に憎まれたとしても、恨まれたとしても、あなたはあなたのために幸せを選択していかなければいけないということ。


どちらも、とても怖いことだ。
この言葉の重みを、本気で知っている人にとって、これは、どちらの立場であったとしても、本当に、本気で、恐ろしいことだ。
それでも、わたしたちは、もう、その時代のはじまりに立っている。

カルマは、精算されないといけない。

清濁合わせのみ、それも「良し」として生きていく術を身につけていかなければいけない。
陰陽は、和合する。
調和は、反調和があって、存在している。
闇は、光が強くなるほどに深まる影。
その事実を、その揺らぎつづける宇宙の真理を、抱きしめて、そのなかで、揺らぎ続け、生きる術をいにつけなければいけない。

それが、これからの時代だ。


誰も、もう、あなたの幸せのために、なにかをしてあげるということは、多分、できなくなっていく。なぜなら、あなたの幸せは、あなたの選択と責任の中にしか、存在し得なくなっているから。

苦しんでいる人を見ても、あなたは自分を「人柱」にしてしまってはいけない。そっちの道の方が、簡単だったとしても。それで世界が救われるのかもしれなくても。あなたは、あなたを救わないといけない。



でも、そんな新しい時代への一歩を踏みだそうとしている、今。
今まで耐え抜いてきた「人柱」たちの想いは、どこにいくんだろう?
わたしの血の中に流れている、この感情の "記憶" たちは、どこにいくんだろう?
あの人たちは、一体、なんのために…。

分からない。
分からないけれど。
それでも。

手放さないといけないんだ。
「幸せを選択すること」への恐れも、罪悪感も。
「誰かの幸せは、他の誰かの不幸の上に成り立っているんだ」っていう、この世界の礎になっている想念も。
手放して、手放して、手放して。
光にかえして、かえして、かえして。

その先に、どんな世界があるんだろうか。
みんなが幸せでいられる世界は、本当にあるんだろうか。
分からない。知らない。

でも、それでも。

「違う。やっぱり違う。
あの時、僕は、僕たちは、確かに世界を変えたんだ。
僕は選んだんだ。あの人を。この世界を。
ここで生きていくことを」

『天気の子ども』

そう、心は叫ぶ。

どこからか、笑い声と共に、言葉が降ってきた。

「まあ、気にすんなよ、青年。世界なんてさ、どうせ元々狂ってんだから」

『天気の子ども』

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ねう
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