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もっと余裕を持ちたいわたしと、対等を求める娘と、平等についての考察
「うわあああああん」
朝、家を出る直前。居間で最後の戸締りなどをしていたわたしの耳に、娘の泣き声(叫び声)が届いた。洗面台でリップクリームを塗っていた娘。なんだなんだ、なにがあった。
「どうしたん?」と居間から尋ねる。少し責めるような口調になってしまった。娘は「髪の毛ぐちゃぐちゃー!」と半ベソで怒り顔だ。
わたしは、この後の流れを想定してしまって、天を仰いだ。
彼女は自分の身なりにとても気を遣う。髪の毛も、アホ毛が出ていたりするのが嫌なので、毎朝ヘアマスカラみたいなやつで、丁寧に一本一本、髪を整える。服も、自分なりのルールがあり、こだわりがある。
できるだけ、その気持ちを汲んであげたいと思うので、身支度の時間は多めに確保するようにしている。それでも、早朝から仕事の日は、バタバタになる。6時半くらいに起きてもらえれば、余裕をもって用意ができる。けれど、冬の日は、どれだけ頑張っても娘の起床時間は7時を過ぎる。そこから30分で用意を完了させないといけない。どうしても、急かすことが多くなる。
娘は「髪の毛をやりなおす」と言って聞かなかった。でも、今日は登園前に実家に寄らないといけない。いつもなら、すでに家を出ている時間だ。わたしは焦る。「ごめんけど、髪の毛やり直してる時間はないから、それで我慢して」と余裕なく言うわたしに、娘が怒る。「お友達に髪の毛ぐちゃぐちゃって言われたら、どーするの?!」と。
自分にとっての優先順位が低いものが、相手にとっても優先順位の低いものであるとは限らない。それは十二分にわかっている。それでも、その瞬間は「それくらい我慢してよ」と思ってしまう。自分にとっては些細なことだから、そこにこだわる娘が、神経質なように思えてしまうのだろうか。でも、彼女にとって大切なことなら、それを大切にしてあげる余裕をもてる親でありたい。
そんなとき、他の家庭ではどうするんだろう。自分が仕事に遅刻することを覚悟で、子どもの気持ちに寄り添おうとするのだろうか。
そんなことを、ママチャリで朝の凍てついた空気を切り裂きながら、考える。夜に降っていた雨の影響で、今朝は京都の山々には霧がかかっている。空気はふわりと湿度を含み、冷たい。
「髪の毛ちゃんとしたいなら、その分の時間をちゃんと作らないといけない。だったら、その分はやく起きてもらわなくちゃ、ママもどうしようもないよ」と言う。お互いに焦りやざわざわした気持ちがあるので、口調がつっけんどんになる。娘は「ママも子どもだったときのこと、思い出してみなよ!なんでいっつも、娘ちゃんのこと怒るの!」とご立腹だ。口を尖らせ、全身から怒りと拒絶のオーラを放っている。
彼女が口から吐き出す言葉も、その態度も、幼少期のわたしと瓜二つだ。親子だなぁ、と思う。母はいつもわたしに「水瓶座の子どもを育てるのは本当に大変。あなたの子育ては大変だった」と言っていた。
さもあらん。
幼少期の自分と瓜二つで、十二分に娘の気持ちや情緒、思考回路を理解できるわたしでも、日々、白目を剥き、天を仰ぎつづけているのだ。自分とはまったく性格や気質の違うわたしを育てていた母は、何度、天を仰ぎ、自分の我慢の限界を超越しようと深呼吸をしたのだろうか。
母よ、20年ほどたって、ようやくあなたの気持ちが理解できるようになったよ。
どうか、安らかに、レストインピース。
いや、母はちゃんと元気に生きているのだけれども。
水瓶座というのは、理屈と理論で生きている。正論が、すべてだ。さらに、どこまでも平等を貫き、対等を求めるのも、水瓶座の性質だ。娘も、そして幼少期のわたしも、大人と子どもの間に横たわる、確固とした差異、パワーバランスの差、理不尽さに、憤っていた。
でも、と思う。
娘よ。あなたの憤りやフラストレーションは、とてもよくわかる。だがしかし、バットハウエバー。
やっぱり大人と子どもは、あなたが望むレベルで、対等になることは、できないのだよ。対等を求めるのなら、それ相応の精神的な成長と、自分を律する力と、自立する力が必要だ。それができないうちは、どうしたって、大人(親)の時間のなかに、あなたの時間も吸収される。大人の時間のなかで、あなたも自分の時計の針を進めていかなければいけない。それは理不尽に感じるかもしれない。ずるいと感じるかもしれない。不公平だと憤りたくなり、反発も反抗もしたくなるだろう。でも、やっぱり、大人と子どもが本当の意味で、立場的に、対等になるのは、難しいよ。
それは、男女平等が謳われる社会のなかで、本当の意味で、男性と女性が、まったく同じ立場・境遇であることができないのと、似ていると思う。ひとりの人として、秀でているとか劣っているとかは、もちろんない。でも、毎月の生理がある女性と、ない男性。自分のおなかの中で、子どもを育む女性と、外側から見ていることしかできない男性。筋肉量、体力、ホルモンバランスの揺らぎ、波。そういった差異は、どうしたって男女の間に横たわる。その差異をないものとして、形だけ「平等にしよう」と言ったところで、それは不平等になってしまう。
本当の意味での「平等」とは、そこに差異があることを正しく認め、その差異を考慮した上で、双方のバランスが整うように調整していくことなのだと思う。つまり、同じでないという前提をもとに、それぞれのバランスをとらなければ、どちらかが相手に合わせて我慢をしたり、自分の本来のキャパシティ以上の努力をすることになってしまう。それは、心地の良い「平等」「対等」とは、やっぱり全然、違うものだと思うんだ。
そうはいっても、娘の怒りは理解できる。彼女からしたら、わたしがいつも頭ごなしに彼女を叱っているように思うのだろう。いつも大人の言うとおりにしないといけない。自分の意見はなかなか通らない。不公平で、不平等だ。それは娘が、まだ、大人側の視点に立って考える力を持たないからだ。大人として生きたことがないのだから、それは当然だ。子ども時分に想像していた「大人」の世界や「親の事情」は、実際に大人になったり、親になってみると、どれぁけ理解が浅かったのかを痛感する。でもそれは、経験してみないとわからない。それは娘が劣っているとか、想像力が足りないと言うことではない。ただただ、わたしたちの間には、25年分の、埋められない、人生経験の差が横たわっている。それだけのことなのだ。
幼稚園に到着したわたしは、娘のヘルメットをとり、髪の毛を整え直してあげた。今日は湿度が高いのか、娘のふわふわした髪の毛は、いつにも増してふわふわしていて、まとまりづらい。くるりんぱして、形を整える。「大丈夫、今日もかわいいよ」と言うと、娘は嬉しそうに微笑んだ。
いつものさよならの儀式となっている、ハイタッチとギュッ×2回をやって、「また後でね」と言って、ふたたびママチャリにまたがる。駅に着いたら、電車到着まで20分ほど、時間の余裕があった。わたしはいつも時間に大幅にバッファーを設けようとする。スマホがなかった時代、地図を頼りに、見知らぬ町のオーディション会場に向かっていた、モデル時代の名残だ。けれど、このバッファータイムを確保するために、バタバタと余裕なく焦ってしまうなら。バッファータイムをもっと短縮させて、電車ギリギリ滑り込みで乗れました!くらいまで、自分を追い込んでみてもいいのかもしれない。だって、バッファータイムを死守するために、娘に寄り添う余裕なく、バタバタして、はあはあ言いながら走ってるわけなんだから。それじゃ、生き急いでいるのと同じだ。意味がない。
そんなことを、思う。
余裕のある生活。ゆとりのある行動。
それって、どういう状態なんだろう。
どんな風に動き、考えることで、その余裕やゆとりを、心に常に宿すことができるだろう。
娘がいなければ、きっと考えることすらなかったこと。彼女のおかげで、わたしは人生という名の日常に、真摯に向き合いつづけることができるようになったのだ。娘よ、ありがとう。
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