「愛ってなに?」と問われたとき、どう答える?-悟りに至るまでの体験を綴る新シリーズ、はじまります
こんにちは。
京都の奥座敷、レイキ発祥の地、鞍馬山にて『伝統靈氣道』をお伝えしている、ねうです。
『伝統靈氣道』をとおしてわたしが本当にお伝えしたいことの真髄。
それは、「わたしたちが命をいただいて、この地球上で生きている理由の真髄」でもあり、また、「わたしたちがどのような在り方で生きていけばいいのかの真髄」でもあります。
その真髄を、言語化して表現しようと長らく思っていました。
でも、言語化できない。
どう表現すればいいのか、わからない。
自分の中で理解できていないわけでは決してなく。
ちゃんと、感覚・体験として理解している。
けれど、その真髄の性質的に、言語化して説明しようとすると、伝えたいことの「本質」が、手のひらをするりとすべり落ちてしまう。
そもそも、この「本質」を言語化しようとすること自体、意味のないことで。この真髄の「本質」を言語化しようとする行為自体が、真髄の「本質」を理解することから、読み手の方を遠ざけてしまうことにもつながる。
だから、わざわざ「頑張って説明しよう」というモチベーションがわいてこない。
それでもやっぱり、この真髄の部分、そして「本質」の部分は、生きづらさや過去のトラウマを癒したいと思っている方、苦しみから解放されてしあわせに生きたいと望んでいる方、悟りを得たいと願っている方にとって、大切なものであることも確かで。
だからやっぱり、どうにかして、お伝えしたい。
でも、言語化できるものでもない。
どうしたらいいんだろう。
こんな葛藤を、長らく抱えていました。
今日は、手始めに「どうして『本質』を伝えることが難しいのか」について、説明をしてみたいと思います。
この真髄、そして「本質」を説明しようとすることは「愛」を説明しようとすることに似ています。
10代の頃に、大恋愛を経験した方も多いのではないでしょうか?
好きで好きで好きで。
好きすぎて、苦しくて、つらくて。
それでも好きで。
しあわせで、嬉しくて。
そんな燃え上がるような恋。
それは「愛」なのか?と尋ねられると、当時のわたしたちは「こんなに好きなんだから、愛に決まっているでしょう?」と答える。
でも、大人になって振り返ってみると、それは愛ではなくて、恋だったなって気づいたりする。人によっては、恋に恋していただけだったな、って気づくかもしれない。
じゃあ、「愛」ってなに?と、10代の自分が尋ねてくる。
「愛」とはなにか、どう説明すればいいんだろう?
辞書に書かれている言葉をそのまま引用して伝えてみたり。
「愛とは、自分のしあわせよりも、その人のしあわせを願うことだよ」と説明してみたり。
でも、どれだけ言葉を重ねてみても、本当の深い「愛」を表現することって、できなくて。
言葉を重ねれば重ねるほど、なぜか「愛」というものが薄っぺらく、安っぽいものに思えてしまう。
説明しようとすればするほど、「愛」への理解から遠ざかっていく。
だから最終的に、「誰かのことを心から愛おしいと体験したとき、愛がなにかがわかるよ」としか伝えられないことに気づく。
でも、「体験したら、わかるよ」なんて言葉、10代のわたしたちには受け入れられない。
「いずれ、わかるときがくる」と言われても、納得できない。
それでも「愛」を知りたい10代のわたしたち、想い人のことを愛しているのだと証明したい10代のわたしたちは、「愛」とはなにかを表現している歌詞や、映画や、本を読んで、自分の気持ちに当てはめようとする。自分が感じているこの熱情こそが、「愛」なのだと、腑に落とそうとする。
でも、どれだけ言葉として「愛」を理解したとしても。それは知識としての理解でしかなくて。
知識や概念として「愛」を理解したとしても、それで自動的に「愛」を体感できるのかというと、そうではないことを、「愛」を経験した人は知っている。
でも、どれだけこの真実を伝えたとしても、10代のわたしたちが納得できないことも、わかっている。
だから、結局、「愛」を知っているわたしたち大人は、ただ沈黙して、見守ることを選ぶ。
その子が成長し、いろんな恋愛を体験し、そして最終的に本当の意味で「誰かを愛する」という感情が、自分の中から自然発生的に生まれてくるその日がくるまで。
わたしが『伝統靈氣道』をとおしてお伝えしようとしている真髄は、「悟りの状態で生きる」ということだ。
でも、「悟り」も、「愛」と同じで、言葉を駆使して伝えられるものではなくて。
知識として理解することはできるかもしれない。
でも、知識としての理解と、体感・腹落ちの感覚を得ることには、とても大きな隔たりがある。
その隔たりを、どのように埋めればいいのか。
どうやって、「知識として理解している」状態から、「悟りの状態で生きている」ところへと、導いてあげればいいのか。
今、少しずつ読み進めている鈴木大拙著の『禅と日本文化』という本の中に、わたしが抱える葛藤を美しく表現している箇所があるので、引用させていただこうと思う。
ここが、わたしの目下の課題であり、向き合っているところだ。
これを達成するためには、多分、わたし自身がこの体感に至るまでの紆余曲折、そしていろんな葛藤や問い、そして経験をシェアすることが、ひとつの手段となるのかもしれない。
そんなわけで、少しずつ、このnoteでも「悟りシリーズ」みたいな感じで、わたしの体験談や、この境地に至るまでの道を発信してみようと思います。
わたしの問いや悩み、葛藤、疑問。
そして、わたしが何年もの時間を経て体験したたくさんのこと。
それらを読んでもらうことで、疑似体験的に、あなたもわたしと同じように「こういうことか」とわかるかもしれないから。
ただし、わたしのストーリーとわたしの体感は、あくまでもわたし自身にとっての正解でしかありません。
これについても、鈴木大拙さんの本の中に適切に表現されており、この表現はわたしの理解・体感と完全に一致しています。
これからスタートしていく「悟り」シリーズが、「わたしが教える絶対普遍の答え」ではなく、「あなたにとっての答え」を見つけていただくための、ひとつのきっかけ・サポートになれば、とても嬉しいです。
ねう
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