幸せを図る物差しって、そんなにも短いメモリで良いのか?
自分の幸せなんて自分で決めるもの。本当にそうなんだろうか?
これまで置かれた場所や隣の青い芝生を見ながら人と比べることで自分の価値観を満足させている日々に、ふと考え改めて突然価値観のベクトルがちょっと方向を変えることがある。
僕の大好きな相田みつをさんの言葉で「幸せはいつも自分の心が決めるもの」と言う有名な詩がある。起きたこと、現在置かれている環境、周りの人々。いつも自分は不幸だ、不幸だ。なんて囁いている人も少なくない。人と比べるな、あなたはあなたのままでいい。あなたをこんなにも守ってくれる人がいる。あなたに憧れる人がこんなにもいる。自分では気がついていないかもしれませんが、よく足元を見ていると、それが幸せなんじゃないのか?あなたが幸せかどうかなんて、人が決めることじゃない、あなたの価値観であなたの幸せを図ってみましょう。なんて言う文章や解説をこれまで何度も目にして来たし、自分でも人にはそう伝えて来た。
けれど最近、ふとこれは違うんじゃないのか?僕が憧れる相田みつをさんが、こんなにも分かりやすくて、誰にでも直ぐに共感を持たれるような言葉を、相田みつをの人生を賭けて作り上げた言葉だろうか?なんてたまに妄想にふける時がある。
そこに留まっていても良いのかと?
類は友を呼ぶと言う言葉も好意的に捉えてきましたが、これも本当は良くない言葉なんじゃないかと思えて来た。
最近SNS等で日常では出会えないような価値観の違う人々、全く自分とは違う別のベクトルで頑張っている人々に出会っている。彼らの目指す方向はこれまでに出会って来た人々とは明らかに違い、「類が呼んできた気の合う同じ思考の友」の中で感じて来た価値観では測れない、未知なる価値観が僕の前にドンと現れた。
そんな昨今、昔若かりし頃に聞いていた、そしてギター片手に歌っていた、懐かしいフォークソングなどを何十年ぶりにYouTubeで聴いたり歌ったりしている。
岡林信康の「私たちの望むものは」の中で「今ある不幸せにとどまってはならない まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ」と言う歌詞がある。今は不幸せだけど、頑張って幸せへ向かおう。と言う内容と認識していたけれど、先の相田みつをの幸せは「自分の心が決める」と言う内容と重なって僕の中で解釈が変わって来た。
流れが止まると水は澱む
食べることにも困らず、ボーッと会社へ行っていれば、毎月給料がもらえ、不景気になってもボーナスが満額で出て、週に一度は外食へ行き、流行りの洋服を買い、クリスマスにはサンタがやってくる。日本はなんて幸せで平和な国なんだなぁ。なんて幸せを享受している。しかし、景気は一向に上向きにならず、一部の企業や特権階級だけが美味しい蜜を吸い、ローンに追われ、疫病が流行ればまさにこんな危機的な状況に急変する。
「今、目の前にある【幸せ】にしがみついて、自分を幸せなんだと無理強いしてないか?」そんな風に聞こえて来た。「幸せは自分の心が決める」本当に幸せになりたいのなら、自分で立ち上がり、鼓舞して、本当の幸せに向かって立ち上がる勇気と決意を持つべきだ。かたや岡林信康もその与えられた幸せにとどまっていても良いのか?まだ見ぬ幸せを求めて、ひとつ前へ進むべきでは無いのか。「私たちの望むものはあなたを殺すことなのだ」といいう歌詞は「現状に満足している私と言う偶像を消しまだ見ぬ自分を求めなさい」そう言っているような気がする。
自分の居場所を守るエネルギーっていったい
やたらと人の欠点を指摘し仲間が集まると陰口ばかりで、された嫌なこと、言われた嫌なセリフをその中で共有し、日々の不満を吐き出して日常のストレスを発散する。そのお供はビールや焼酎と共にテレビの向こうの打てない選手にぶつける。日々の憂さ晴らしをして、小馬鹿にしながら大声で笑うことがこんなにも気持ちが良いものかと時々湯鬱になる。気がつくと毎日が文句と批判と愚痴で過ぎていく。「自分はこんなところで一体何をしているんだろう?でも、何もかも全ては時代のせい。」「不景気だからしょうがない、会社が悪い、上司が悪い」そうやって自分自身に言い訳をしてないだろうか?できない理由を見つけるのが上手い人、他人の悪いところを見つけては指摘ばかりする人。人の評価を下げることで自分の居場所より上に上がってくる人を蹴落とすことで、自分の自尊心を必死に守る。今いる場所にとどまっている最大の理由がここにあるのかもしれない。ものすごいエネルギーと労力と時間をかけて、退屈でツマラナイ、いつもと何も変わらない明日がまたやってくる。気がつくともう今年も半年が終わろうとしているけれど、これも全部世界のせい、疫病のせい、会社のせい、政治のせい。そうして気がつくと大晦日を迎えて、また新しい年に向かって抱負を語っている。何も変わらない抱負を。
みんな違ってみんな良い。ポンコツだろうと何かをやってみればいい。
気になっていたけれど買ったことがないスイーツを買ってみる。似合わないと諦めていた洋服を買ってみる。下手くそで上達しないギターを毎日10分でいいから触ってみる。恥ずかしくて入れなかった習い事の体験会に参加してみる。カメラを買ったけれどそのまま埋もれているのをカバンに詰めて、通勤時の花壇を毎日撮ってみる。いつもと違う通勤路を遠回りしてみる。しばらく話してない両親に電話をしてみる。見る専門だったTwitterに投稿してみる。なんでもいいからちょっと変化をつけてみる。何でもいいから。何でもいい新しいことをちょっと続けてみる。ちょっとした変化が、ちょっとした行動が少しづつ、少しづつ先へ進み、毎日毎日続けているうちに365個の変化が生まれる。昨日までの自分と365回分だけちょっと変わる。365回分周りの自分を見る目がちょっと変わる。ちょっと変わった人が10人集まれば3650個の変化が起きる。
気になるものがあれば真似てみればいい。真似してみたらそれが何なのかがちょびっと分かって、ちょびっとをその人と共有すればいい。その共有を他の人にも話してみればいい。話した人が他の人にも話してくれれば嬉しい。真似っこさん達が新しいグループになって、真似っこさんの数だけバリエーションが生まれ、その新しいバリエーションをまた真似てみれば、新しいオリジナルが生まれる。
今、世界中のみんなの目の前にある物はとてつもなく大きくてひとりの力では到底立ち向かえるものでは無い。風の時代と言う。何ができるのだろう?何をすればいいのだろう?僕には何ができるのだろう?よくわからない毎日だけれど、なんでもいい、今はただ、毎日歌って、笑って、時折このような駄文を綴って。これが何になるのかはわからないけれど、何もせずにそこにとどまってはいられない。一人一人が思うことはそれぞれの価値観が、それぞれの幸せを求めれば良い。その集合体が、集合体の幸せを作り出せばきっと違う時代に進むことができるような。先人たちの残していったものたちをひとつひとつ噛み締めながら、ただただ前へ進んでさえいればきっといつか、どこかへたどり着けるんじゃ無いのかと。一緒に歩いてくれる人がたくさんいることだけは忘れないで。
これが僕がClubHouseを初めて4ヶ月で得たものです。
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