Pilates Is Philosophy
ピラティスを教え始めたのは2006年。
ビバリーヒルズにあったスタジオで、私は、生徒として学んでいたところから
かっこよく言えば、オーナーにヘッドハンティングをされた。
彼女のことは尊敬をしていたし、
同じダンス出身というのもあり、彼女の元で働けることに心から喜びを感じた。
働くインストラクターは
ハリウッドで活躍する女優さんをプライベートで教え、
スタジオにも有名な歌手のマネージャーさんや
大富豪も出入りして賑わっていた。
そんな華やかな世界で働けることが私の中のエゴを触発し
インスパイアし、私自身ももっともっとこの世界で一旗上げたいとすら
思うようになった。
インストラクターとして初めて、満員だったクラスを引き継ぐことを打診され、
教えたクラスは、クラスがはじまった時には満員だった。
でも、私の英語の発音の悪さ、テンパって出てこないセンテンスのおかしさ、
そして、腰が引けて統率出来ない弱さが全部出て、55分のクラスが終わる頃には
2人だけが残る残酷さだった。
負けん気の強い私は、そこから英語の発音講師を雇い
日本人英語を直すことにした。
それなりに出来ていると思ったのに
手という意味のハンドという言葉が伝わらなかった時には
自分でもそれだけ酷いのかと唖然とした。
発音のレッスンを始めて1ヶ月後、私のクラスは満員御礼になった。
そして、キャンセル待ちが出るほどの大盛況ぶりとなった。
私は、クライアントさんたちの間で「アイロンバタフライ」と呼ばれるようになった。
話し方は優しいのだが、鉄のように厳しい
という意味らしい。
8月に雇われて、その年の12月のクリスマスには、
抱えきれないほどのプレゼントを頂いて帰ったのを覚えている。
どんどんと負けん気と底意地の強さで私は、
華やかな世界で、アメリカ人に混じって戦力として働いている気持ちになっていた。私の名前は、他のスタジオでも囁かれ、他のスタジオにレッスンに行くと
「もしかして、、、、あのIzumi?」と言われることも少なくなかった。
ところが、数年経った後、
私の体に異変が起き始めた。
ピラティスをやればやるほど、体が痛くなっていくのだ。
どうしたものか?と思い、ピラティスをするが、余計にひどくなる。
混乱をした。腰がすこぶる痛い。とにかくずっと体をストレッチしていたい。
でも、現実では、私のプライベートセッションもグループクラスも満員で
朝から晩までひっきりなしに働いていた。
つまり、私のピラティスは、素晴らしいものという認知をされていた。
当の本人は、実のところ、自分のピラティスで体を痛めているのに。
これでいいのだろうか。
確かに私はアドバンスと呼ばれるエクササイズは、
他の人が真似したいというほど、出来ていた。
気分を変えようとヨガのレッスンをスタジオに受けに行くと、
「あなたの動きは何年ヨガをやれば出来るようになるの?」
とまで聞かれるぐらいだった。
でも、ヨガをやれば、起き上がれなくなるほどカラダは悲鳴をあげていた。
そして、ある日、クライアントさんの誕生日会で1人の女性に出会うことで
私のピラティスの人生は、変わった。
どう変わったかといいうと、
全くもってピラティスの概念が変化したのだ。
そして、私の人間性までも変えた。
負けん気と根性と努力でやり抜くゴボウ抜きが得意な豪速球の私から
優しさと思いやりと揺るがない自信が常にある私に。
私の住む世界も、変わった。
華やかでエゴの錯綜する場所から
穏やかで愛の交錯する場所へと。
この言葉を言ったのは、イブという、ダンサーであり、ジョセフ・ピラティス氏に30年(1938~1968)付き添ってピラティスを教えてきた女性である。
私が誕生日会で1人の女性と出会った。
ふと、彼女が
「ピラティスのインストラクターなら、レドンドビーチのスタジオに行ったらいいわ。彼女に出会ったら、ピラティスの真髄を知ることになるから」
と。
そして、私は、サムに出会った。
サムのクラスはとても厳しかった。
みんな、真剣にピラティスを極めている人が多かった。
見たこともないシルバーカラーのピラティスマシン。
見たこともないチェアの数々
見たこともないマットの形
見たこともない装置があちらこちらに存在をしていた。
「あなたは、英語はわかるの?
ピラティスのインストラクターと言ってもクラスについて来れない人が多いし
エクササイズの真理を理解していない人が多いから、
インストラクターだからって、すぐにクラスを受けさせることはしていないの。
プライベートから受けて頂戴」
その言葉を聞いて、雰囲気を見て、
本当のピラティスを私は全く知らないのかもしれないと
ブルブルっと武者震いをしたのを覚えている。
ここから私のピラティスへの哲学は始まった。
続く
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