我々は『オタク飽食の時代』をいかにして生き延びていくか
飽和状態になるあまり、美味しんぼ化する映画オタク界。旧世代の生きる道は。
「好きなものを好きでいることがつらい」時代の到来
ここ数年、オタクでいることが辛いのです。
私自身、以前であれば、こんな感覚に陥ることがあるとは思ってもみませんでした。
ともかく、楽しかったはずのオタク人生は色あせ、ときに嫌気が差すこともあるのです。
オタク論に深入りすると深淵にとらわれてしまうので、本稿でいうオタクとは、『何かを愛好し、それに対して何らかの追求するアクションをする人』という程度の意味にとどめます。
また本校では主に洋画オタクを指してオタクと表現いたします。
こうなったきっかけは『恵まれすぎている』から
きっかけは、なんだろう。
たとえば私はSF映画やブロックバスター映画のファンだったはずなのですが、今はそれらを追い続けるのに辛さを感じることがあります。
この問題が顕著になってきた時期というのは、
『スター・ウォーズ フォースの覚醒』
「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」
『レディ・プレイヤー・ワン』
などが発表されていった頃からです。
これらの作品の共通項は、いずれも『既存コンテンツを利用した、ファンサービス満載の作品』という点でした。
ひとむかし前なら考えられないくらい、『80年代やそれ以前からのオタクを全力で喜ばせに来ている』んです。
懐かしい映画やコミックのキャラクター達がスクリーンに次々登場。
しかも旧作への愛があり、過去の題材を引用したり知識があればより楽しめる構成になっている。
そして、総じて高予算・高クオリティな大作でありました。
こんな環境…あまりにも恵まれすぎています。
00年代以前のオタクの状況を鑑みれば、まさに夢のような世界。
続篇、リメイク、リブート、クロスオーバー、コラボレーション…等々が目白押しで、まさに昔「あの続きを作ってくれないかな」「あのキャラクター達に共演してほしいな」などと妄想していたような新作が、実際に次々と出てくるのです。
従来であれば、こんな良いものを見せられたオタクの反応はどうあるべきでしょうか。
諸手をあげて歓迎し、
元ネタやトリビアなどの知識を誇り、
仲間とエモさを語り合い、
その魅力を布教していく…
そんなのが正しいオタクのあり方だったと思うのです。
でも、それができないんです。
いや、「できない」とまでいうと言い過ぎで、「やろうとすればできるが、すさまじいエネルギーを消費する」というのがより正確なところです。
ブログに記事ひとつを書くためにも、自然と湧いてくる情熱だけでは筆をとることができません。
自分の中でパズルのピースを必死につなぎ合わせ、
エモさを見つけて感情を高ぶらせ、
モチベーションを作る必要が出てきました。
そんなことを続けていると、『あれ、自分が好きなことって、そんなに大変なことだったっけ?』という疑問が湧いてきてしまい、なんともいえない徒労感と、閉塞感を感じてしまうのです。
オタクは『飽食の時代』に差し掛かっているのでは
さて、どうしてこんなことになってしまったのか。
私が思うには、我々オタク自身と、それをとりまく環境の両方の変質が大きいと感じています。
オタク的な要素を含むものが世の中において一般化した
それにともなって、「オタクの好む要素」を盛り込むことがセールスに好影響をもたらすことが周知の事実となった
作り手側もそれをわかっていて、最適化したプロダクトを大予算で作るようになった
まあこんなのは、この10年くらいを通じた傾向であって、あえて取り上げるのも今更という気がしますが…。
ともかく私達は、デロリアンが好きに決まっているんですよ。
オーバールック・ホテルも、ガンダムも、メカゴジラも、アイアン・ジャイアントも大好きに決まっているんです。
ミレニアム・ファルコンがチラッと顔見せするだけで歓喜する人種なんです。
それらを全部のせしたような映画を作ったならば、そりゃあ喜ばれるに決まっているではありませんか。
そこには極論、『いい映画かどうか』に関係なく価値が発生します。思考など必要ないのです。
いまや、そういうアプローチこそが、オタク的にも、セールス的にも、正しい選択なんです。
昔なら不可能だと思われたようなコラボレーション、クロスオーバー、リブート等々が強力なパワーを発揮して、懐かしのキャラが息を吹きかえし、熱狂が次の熱狂を呼ぶ好循環。
(ソニーピクチャーズがディズニーにスパイダーマンを貸し出すなんて、かつては予想もできなかったことです)
こういった状況について考えてみたとき、ふと脳裏をよぎったのが『飽食の時代』という言葉でした。
これは80年代後半、バブルの前後から聞かれるようになった言葉だそうです。
つまり、経済成長によって、人々が食うに困らなくなり、食事のもつ意味が『空腹を満たす』から『おいしさ、社会的ステータス、話題性』などの価値を求めるものに変質したことを指します。
食事に対して求める価値感が一歩進んだわけです。
で、今オタクとそれをとりまく環境は、食文化になぞらえるならば『飽食の時代』をすでに迎えて久しいのではないでしょうか。
その日食べるものがあることに感謝していた時代は終わりをつげ、市場には様々な食材があふれ、人々はそれらに似たものを以前にも食べたことがあって、しかも『おいしい』とすでに知っている状態。
こうなると、お店の方も『客の好みだとわかっているもの、上質でおいしいとわかっている素材』を組み合わせ、全部乗せすることが正義の時代に変わったのです。
消費者ではなく、良きファンでありたい
別に『レディ・プレイヤー・ワン』や『ノー・ウェイ・ホーム』や『ゴジラxコング』を批判する気はありません。
そういうものがあってもいいのですが、私を含めたオタク達の精神が、この恵まれすぎている時代に追いついていない気がするのです。
好きなものを出されて、好きという感想を吐き出すオタクは、果たしてオタクなのでしょうか。
これは、『あなたの好きなトンカツとエビフライが両方入っていますよ』と出されたミックスフライ定食を食べて、『うん、トンカツとエビフライが入ってるから好きだ!』と感想を述べる美食家を、はたして美食家と呼べるかという話です。
この状況を甘受し続けてしまうと、単なるポップカルチャーの再利用とゴテ盛りの繰り返しの無限連鎖が続くことになり、その先にあるのは、すでに評価の定まったコンテンツの遺産で遊ぶだけの知性の欠けた世界ではないか、と思うからです。
ですから私が感じていた苦しさは、好きなものの名前を追い求め、ミックスフライ定食を食べすぎるあまり、それが苦痛になってしまっている気分に近いものだと思います。
『トンカツもエビフライも好物なのは分かっているし、一緒に食べてもおいしいのは当然なんだけど、だから何だというんだ?俺はおいしいという体験や、それを文化的に追求する行為を愛していたのではなかったか?』と感じてしまっていたのです。
つまりオタクは『美味しんぼ』化しているのではないか
前項でコンテンツを料理に、オタクを美食家に喩えましたので、それに乗っかって話を続けましょう。
私が小学生の頃、学級文庫にコミックスの「美味しんぼ」がありました。その当時に出ていた全巻でしたから、たぶん60巻くらいまでです。
これを読んだ地方育ちの小学生にとって、その世界は非常に衝撃的でした。
『こんな世界があっていいのか』と圧倒された覚えがあります。
キャラクターたちは銀座の高級料亭に行っては、やれ「これがうまい」だの「これはまずい」だのと述べる。
しかも、「これはニセモノ、まやかしだ」「食えたもんじゃない」「本当の〇〇をお見せしますよ」などと、食べ物に対して大の大人たちが争っています。
それもただの大人ではありません。一流大学を卒業した人たち、華やかなマスコミで働いていたり、実業家や政治家であったりという、“とくに立派な大人=エリート”が、食べ物にまつわる蘊蓄に命を懸けているのです。
食べ物のありがたみとは無縁の、知識量でマウントをとりあう世界が、そこにありました。
親から「料理を作ってくれた人や食材に感謝をして、残さずに食べましょう」と言われて育っていたのに、その価値観とは全く違う価値観に触れたのです。
子供ながらに、キャラクター達のある種の選民意識、下品さ、俗っぽさを感じたものです。
もちろん「美味しんぼ」は漫画であってフィクションですが、バブル期の東京のど真ん中にいたメディアや財界の人々が、これと似たような空気感に包まれた時期があったことは想像に難くありません。
『美味しんぼ時代』に突入したオタクは困惑する
今のオタクが取り巻かれている状況も、それと似ています。
いまや、我々の空腹は満たされ、『オタク美味しんぼ時代』に片足を突っ込んでしまっているので、ここから逃れることは困難です。
私達は、好きだと分かりきっている物をたらふく食べられるし、「うまい」「まずい」と能書きを垂れることが許されています。
元ネタに関する蘊蓄、イースターエッグなど、知識を仕入れてマウントをとりあう材料に事欠きません。
かつて困窮状態にあった我々には、『お布施として観ておかないと、このジャンルや監督の次作が無いかもしれない』などという、自分たちが業界の一部として支えているような意識がありましたが、時代は変わりました。
今や我々は選ぶ側であり、お客様、消費者様なのです。
飽食の時代ですから、腹を満たすだけなら誰にでもできます。
そのうえで、食に対する向き合い方は個人個人が決めればいい。
巷にはサブスクリプションを含め、好きなものを好きなだけ享受できる環境が整っています。さしづめ、ビュッフェ方式というわけです。
私たちは、自分たちの好きなものを支えるファンではなく、完全にお客様、消費者様になったのです。
しかも、作品を創造するクリエイターたちはみな、私達と似たようなコンテンツに囲まれて生きてきた同類であって、ファンのツボなど手にとるように分かります。ですから、何を、どのタイミングで見せれば同類が喜ぶか、よく分かっています。
そして出資者側も、そういう論法の作品が商業的に成功した実績が増えるにつれ、おなじアプローチを続けていくことになります。
ファンに喜んでお金を出させるための近道は、すでにファンが好きなものを望むような形で出してやればいい。
資本主義的に当然の帰結です。
飽食がグルメと化すと、悪臭をともなう可能性に注意
『美味しんぼ時代』で注意すべきことは、そもそも食べ物に対して「うまい」だの「まずい」だのと論ずることそのものが、ある種の無礼さ、下品さ、知識のみを尊ぶ行為の悪臭をともなってしまう可能性があるということです。
お金を出したものに「うまい」「まずい」と発言することはもちろん個人の自由なのですが、できることならば、その裏にはある程度の敬意と、それができるくらいの思慮がほしいと思うのです。
そうでないと、たとえばその料理ができあがるまでの料理人の努力や、食材となった自然の恵み、その料理をはぐくんだ民族の歴史…などなどに対する敬意を置き去りにしてしまい、自分が料理をジャッジメントできる立場にいることに陶酔して、『この味ならいくらまでなら出せる』などと値踏みを始めてしまう品性の危機をはらむのです。
そして品性を失ってしまったら、「ありがたみ」までもが失われてしまいます。
本来、食文化でいうところのガストロノミーというのは「食事と文化の関係について考え、『おいしい』という幸福を追求すること」であったはず。
それはストイックな道であり、つねに研究し高めるものであり、一時的な消費目的のために『美味しいもの同士を全部のせしてみた』という次元のものとは根底から違う…はずです。
"好き"に惑わされないように
では、コンテンツ飽和時代に直面したオタクは、どういうマインドを持てばいいのでしょうか。
私は"好き"に惑わされないことが重要だと考えます。
"好き"だけを基準にしていると、あなたの好きなものを熟知している作り手達のマーケティングに見事にひっかかってしまいます。
そうなると、飽和状態の市場は我々のキャパシティを簡単に越えてしまいます。
このキャパシティというのは、単に消費可能な量という意味ではなく、個人がオタクとして、敬意とありがたみをもって味わえる量の限界という意味です。
これを意識せずに好きなものを全てをカバーしようとすると、ひたすら義務感で追い続けることになってしまいます。せっかくの趣味が義務になってしまっては、オタクの楽しみは台無しです。
ですから、『すでに好きなことが分かりきっているもの』を目の前に出されても、むやみに飛びつくことなく、「それが今、自分の人生に必要かどうか」という観点から吟味するべきです。
そして、サブスクリプションなどの環境が整っているということは、『膨大な旧作のアーカイブに手軽にアクセスできる』ということでもあります。
ですから、新しいものに飛びつく必要性も、相対的に減っています。
作品の新旧を問わず、自分が今、本当に食べたいものを選択することを心がければ、オタクとしての幸福は近づくのではないでしょうか。
拠り所にして良いのは自分の食指、そしてマイブームだけというわけです。
そういった意味で、私は気の向くままに、その時に必要と思うものだけをピックアップすることにしました。
これから、そのような発信をしていくつもりです。
作者:ブリア=サヴァラン
発売日: 2017/10/06
メディア: Kindle版
英国一家、日本を食べる (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)
作者:マイケル・ブース
発売日: 2013/04/09
メディア: 単行本(ソフトカバー)
作者:柏井壽
発売日: 2018/04/17
メディア: 新書