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こちらから合わせにいく重要性

今回は作業療法士の学会だった。
受付をしながらちょろっと話を聞く事もできた。
これまたドンピシャな内容で、「セラピーにおける子どもとの関係性の作り方」みたいなタイトル。
わあ、療育やがなと興味津津!


千葉の大学の先生がスピーカーで、このワークショップ参加者に向けて英語で講演されていた。
専門用語は難しいのでその都度グーグル先生に聞きながら聞いてみた。


その大学の作業療法士実習の様子がビデオで流れた。
多分重度?のASDのお子さんを相手にセラピーをする様子なのだが、ダメな一例として使われていた。
学生さんを見ているとどう接していいかわからない様子。さらにその子は怒っている。
やーそりゃわからんよなあ。
毎回セラピーを見るたびに思っていたけど、子ども相手のセラピーは遊ぶのが上手いセラピストじゃないと成り立たないのだ。
子どもの好みが分かって、その子のタイミングで促しが出来るかどうか。
子どもの言うことばかりをきくのではなく、自分の訓練にいかにのせていけるか、が肝になってくる。
前の職場で出会った作業療法士は全員それが上手かったと思う。
言語聴覚士もそうだ。


講演の前と後に、その先生とお話させてもらったけど「まずは関係性をどう作っていけるか」が訓練がどう進んでいくかを決めると話されていた。その通り。療育も同じだ。
訓練はやることが決まっているけど、療育の遊びは遊びにいかに乗せるかが腕が試される。集団が苦手な子、勝敗が決まるのが嫌な子などは特に「構えさせないで参加出来るように促す演出」が出来るかどうかが試される。
でも訓練にも臨機応変さが必要。


そしてやはり子どもを大人や周りに合わせられるように「治す、治療する」のではない。こちらがまずゴリゴリに合わせにいって関係性を作ってからがやりとりの始まりなのだ。
そしてコミュニケーションを取るのが難しいとされるASD児とのやりとりについて。彼らとのやりとりは出来る、なぜなら大人は言葉がない赤ちゃんとコミュニケーションが取れるのに、障害児となると途端にやり取りが難しいと言い始める、そうじゃない!と話されていた。

いやその通りなのだ。子どもの見た目が大きくなってきたり、言葉を獲得し始めると途端にこのノンバーバルコミュニケーションを大人側が頻度を下げていってしまうのだ。別のコミュニケーションツールに変えていこうとするのだが、ことばがない場合はこれが本当に有用なのだ。なのに大人側がやめていってしまう。


前から思うのはことばの獲得の厄介さだ。
ことばはコミュニケーションにおいて分かりやすさの代名詞になっているけれども、本当にそうだろうか?
最近知り合いと話した構造言語学の話。ことばを使ってやりとりをするが、本質までは分かりきれないし、分かり合えない、分かっている風にコミュニケーションしているだけ、という話。
だし、適切に思いやことばを伝えることばのみを覚えるわけではない。汚い言葉、威嚇する言葉を覚えると本当の気持ちを言いたくても偽ったり装ったり出来てしまうのも言葉で、これが本当に厄介。本心を伝える技術が削がれてしまうし、ますます相手に伝わらなくなってしまう。何なら相手が離れていったり、嫌われてしまう。
人間だけがことばを使うだろうから、本当に厄介だろうなと思う。こういうことから「ことばの裏を読む」などという作業が産まれてしまうのだ。ああ本当に厄介。人間も感情を表現する時にただの鳴き声とかになったら、その方が率直に相手に伝わるかもしれないのに。いろんなことばの表現があるがゆえに厄介なのだ。
でもまあその分、歌とか詩とか、情緒を表す方法もたくさん出来てアートになるのかな。


そしてこの、療育する側の非言語コミュニケーション技術の重要さよ。無いよりある方がいいんだが、これが大人側や訓練を提供する側の受信機と感受性なんだと思う。そして「この子はこう思っているに違いない」と決めつけてしまうのではなく、日々創意工夫と見直し、フィードバックが必要なんだ。あー本当に、なんて面白いんだろう療育、と思った。


シンガポールから来ていた学生の子が「子どもの後をずっとついていくのではなく、こちらの訓練に乗せていくタイミング」について聞いていた。先生は「間なんだよな〜これ英語で何て言ったらいいのかな」と話されていた。そう、間なんだよな。これを言語化して説明するのって難しい。やっぱり感覚とセンスなのだ。


この「感覚とセンス」がないと出来ないと思っていたが、その先生曰く「それを学校の先生に教えることで先生が変わったケースもあったから、教える事もできるんだよ」と言っていて。
そのメソッドをもっと詳しく知りたかった…けど時間もなく。


久々に熱く話が出来たと思った。
あーやっぱり療育って面白いんだな、と思った。

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