そうだ ゲーム音楽、聴こう。

古参も古参、アケシュー偏重のゲーム音楽リスナー・小蕪が、忘れ得ぬゲームミュージック・コ…

そうだ ゲーム音楽、聴こう。

古参も古参、アケシュー偏重のゲーム音楽リスナー・小蕪が、忘れ得ぬゲームミュージック・コンポーザーたちについて、独断と偏見で歯に衣着せず語ります。

最近の記事

前回の続き、あるいは枕詞

“俺的ゲームミュージックの3大要素”は、①機能性 ②音楽性 ③物語性 昨日の続きです。 “俺的ゲームミュージックの3大要素”について、もうちょっと詳しく。 ①機能性 ゲーム音楽として必要最低限の要素。 いかにゲームを盛り立て、プレイヤーの心を震わせるか。 ②音楽性 いわゆる一般の音楽と同列の評価軸。 ゲームから切り離して聴いても面白いか否か。 ③物語性 ゲーム音楽ならではの要素。 プレイヤーの脳内に、どのようなストーリー性を刻むのか。 …なのですが、 だいたいどれか1つ

    • 演奏不可能上等!

      いずれ拙noteでも大々的に取り上げる予定の、とあるゲームミュージックコンポーザー様のお言葉に、膝を打つものを感じました。 音楽が生演奏できなくても、何が悪い!? かつてのゲーム音楽には、音源のチープさゆえの研ぎ澄まされた音作りがあり、その輝きは令和の世にも色褪せることはありません。 でも、音源の縛りが弱くなっている今日、「人間の手では演奏不可能な」曲作りもまた、ゲーム音楽(DTM)に秘められた大きな可能性である、ということに気づかされたのです。 演奏で再現できなくとも

      • 謎の判断基準

        まあ私どもは、ゲーム音楽を「音楽」として愉しみ始めた最初の世代なのではと。 大昔にゲーメストでおよそブッ飛んだ投稿を掲載して頂いたことがあるのですが、当時は「ゲームの付属物でしかないゲーム音楽を、音楽単体で楽しむなんて!!」と、驚かれた方も少なくなかったご様子。 …そうなんです。私たちは「ゲーム音楽愛好家」ではありますけれど、大部分のCDはゲーム本体を持っていなかったり、プレイ経験すらなかったりするのです。 ↑こういうことをしていると、本来の「劇伴」としての評価は無理で

        • 言葉なくして物語を語るもの

          私がゲーム音楽に傾倒した理由の一つに、「(原則として)歌詞がない」点が挙げられる。 いやさ、1990年代頭ぐらいで、皮相な恋愛しか語れないニューミュージックには飽きが来ていて、闇雲に前向きなアニソンにも共感できなくなっていた。 そこへ持ってきてゲーム音楽はどうだ? 歌詞がなかろうが、音源が貧弱だろうが、そこには広大なゲーム世界へと羽ばたかせてくれる“翼”が、確かに存在していた。 …もっとも、私がゲーム音楽をゲーム本体と共に味わえた時期はあまりにも短くて。その辺りの事情は

          三者が共創する“音画”

          久々に「ガイアポリス」など聴き流しつつ、思ったことをつらつらと。 ゲーム音楽を聴くのは、一編の旅行に似ている。 オープニングからエンディングに至るまでの、「風景のある音」。だがそれは、サウンドとリスナーの間にゲームが介在することで、その度筋書きの違うインタラクティブなドラマが生まれるということだ。 もちろん、ゲームと切り離して純粋に音楽として評価するのも「アリ」だ。だが、ゲームをプレイすることで、格段に理解が深化する、というのも紛れもなく事実。 そこに在るのは、音楽と

          三者が共創する“音画”

          序章

          耳に響くのは普通の音楽よりもちょっとシンプルで、だからこそごまかしのきかないループする音。 一瞬頭をよぎるストレートかつ身も蓋もない曲名(<だがそれがいい!) それでいて脳内には無限の物語世界が広がる。 そうだ ゲーム音楽、 聴こう。 「ほーら僕はこんなに気持ちいいんだよ〜、みんなもノッてー!」というのが古川もとあき。 「ここでこんな音流したら気持ちイイでしょ? ノるでしょ!?」というのが古代祐三。 「ゲームの空気を読んだ上で、好き勝手やるぜヒャッハー!!」というのが